Soiree -un-
宮殿の裏手には大瀑布があり、グランコクマの街を囲む真白い水道橋が城壁代わりに其れを取り囲んでいる。
裏手の殆どを其れらが占めているのだが、その片隅に、人のそうそう立ち入らない様な小さな庭があった。
それは水道橋と宮殿と滝に囲まれた、余剰スペースを埋める為だけに作られた様な場所だった。
手入れこそされているものの庭と呼ぶには手狭なそこで、
常緑の広葉樹がいくつかその枝葉を伸ばしていて、1日の大半は濃い緑の日陰に埋もれていた。
其の中にひっそりと、人が四人も入ればいっぱいになってしまうような、
ささやかな白い四阿(あずまや)があり、その向こうには小さな池があった。
雑草は綺麗に取り除かれているが、立地的に水気が絶えないせいか、白い石畳は半分以上が深緑の苔に覆われている。
しっとりとした柔らかい苔は綺麗に生え揃っており、滅多に庭へと足を踏み入れる者が居ないことを物語っていた。
その日も急かされるように執務を終えて、ようやくピオニーが解放されたのは、空が濃藍色にすっかり塗り潰された頃だった。
落ち日の尻尾も見当たらぬ空を見るとも無く見て、凝り固まった肩を解すように伸びをする。
いつもならそのまま休む所だが、ふと気紛れに思いつき、彼が日頃から可愛がっているブウサギを一匹だけ連れて部屋を出た。
「よーし、来い、ネフリー。
たまには夜の散歩ってのも、なかなかいいもんだろう?」
ご自慢の毛並みを撫でてやれば、その手に甘えるようにじゃれついてくることに機嫌を良くし、
例によって困惑する護衛を撒いては一人と一匹でふらりと散歩に出掛けた。
あまり人の多い場所に出れば見つかって連れ戻されてしまう。
そう考えたピオニーはそれならばと、いくつかある彼の気に入りの場所の一つを目指して軽い足取りを進めた。
目指すは宮殿裏にある小さな庭。執務に飽きて逃亡を図る際に、最近行くようになった場所だ。
一応宮殿の敷地内なので警備の点はさほど心配ない。
適度に人通りが少なく、それでいて、何かあればすぐに兵が駆けつけられる立地だ。
護衛を撒いて逃亡はしても、その辺りの事を抜かり無く確認しておく程度には、彼は確と自分の立場を理解していた。
疎らな音素灯の光を縫うように、天鵞絨のような光沢を放つ緑の苔を踏みしめ踏みしめ進んでいくと、
樹々に囲まれた濃い闇の中にぼんやりと浮かび上がる、真っ白な四阿がある。
美しい装飾が施された手の込んだ物ではあったが、実用性はと云うと日除け程度にしか用を為さない。
中には瀟洒な白いベンチが一つ置かれたきりだ。
ピオニーはさくさくと迷い無い足取りで真直ぐ四阿に向かい、ベンチへと無造作に腰掛ける。
昼間は澄んだ薄水青の水面を輝かせる池は、今はとろりとルナの光を一粒たたえて、深く黒く沈黙している。
何でも無いただの夜の光景だが、それでもピオニーは満足げに小さく笑い、
足元でうろうろする『ネフリー』の首元をくすぐるように撫でてやった。
ふと、池の向こう岸にある梔子の茂みの根元から、
白くて細い棒切れのようなものがにょきりと突き出ているのが視界の端に見えて、
反射的にそちらを見遣って眼を凝らす。
闇の中にあってもはっきりと浮かび上がるその白くて細長いものは、
よくよく見れば人間の腕、其れも女子供のように細くて華奢なものだった。
梔子の茂みから伸びた其れは、時折そよぐように池に浸した指先を揺らし、
水面に遊ぶような素振りでいたずらに微かな波紋を立てている。
水面がルナの光の粒を撒き散らしながら揺れるその光景は、
確かに其の白い腕が見間違いや幻ではないことを物語っていた。
僅かに戸惑いと警戒を抱きながら、ピオニーは不可解さに首を傾げる。
周囲には自分と『ネフリー』以外に、確かに生物の気配は無かったはずだ。
物騒な客人には慣れた彼のこと、そうそう気配を読み違える事などないのだが、
しかし現に池を挟んだ向こう側には、どことなく無邪気で無防備な風にさえ見える細腕が横たわっている。
それでも、「それ」からは気配と云うものをまるで感じないのだ。
考えたのは一瞬で、彼の決断は早かった。
ピオニーはさっとベンチから立ち上がると、四阿に『ネフリー』を残し、一人で池の縁を歩き出した。
君子は危うきに近寄らずとは云うものの。
しかし彼には、何となく「それ」が己に危害を及ぼすものではないと本能的に理解できた。
警戒は解かない。けれど無性に「それ」を確かめたくて、ゆっくりと梔子の茂みに歩み寄る。
「それ」まであと数メートルの所に来て、ピオニーは眼を丸くして思わず立ち止まった。
「それ」は、梔子の茂みの中に突っ伏すように横たわっていた。
片腕は先程と同じように池の水面に指先を遊ばせ、もう片腕の上に顔を伏せている。
髪に隠されて横顔も見えなかった。
腕と同じく白くて頼りない脚はふらふらと虚空に揺らされて、まるで足の届かぬ椅子に座って遊ぶ子供の様な仕草に見えた。
身に着けた衣服は、この国ではまず見掛けない様な、風変わりなものだった。
顔を伏せたその姿は一見性別をあやふやに見せていたが、手足の感じからして恐らくは少女だろうと思われる。
敢えて足音を立てて近付いてきたピオニーに気付いていない筈は無かろうに、
相変わらず顔を伏せたまま、「それ」は彼には見向きもしない。
暫し黙って様子を見ていたピオニーだったが、「それ」に話し掛けてみることにした。
よく考えずとも、宮殿の裏庭で会うには「それ」は明らかに不自然で不審な存在であると分かっていたが、
彼の興味を引いてやまない不思議な「それ」に、声を掛けずにはいられなかった。
「…何をしているんだ?」
お前は誰だ、と聞くより先に、つい口をついて出たのがそれだった。
やけに楽しそうな響きを含んだ声だと思い、ピオニーは我が事ながら苦笑した。
声を掛けた途端、ふらりふらりと不安定に揺れていた脚が止まり、ぱたりと地面に落ちる。
衣服の裾から伸びた裸足の脚は、そうやって地面に投げ出されていると、まるで骨のように見えた。
やおら頭がもぞりと動いたが、顔を上げる事はせず、
気怠そうに僅かに腕から顔をずらして、散らばる髪の隙間から片眼だけでピオニーを見上げてくる。
「見て分からないのか。水に触れている。」
そりゃ最もだ。ピオニーは云いながらくつくつと笑い声を上げた。
怠そうにのっそりと喋る「それ」の声は、やはり見目の通り少女のようでもあり、また聞きようによっては少年のようでもある。
「楽しいか?」
「…。」
「そんなところに寝そべって、寒くないのか?」
「…。」
「俺もそっちに行っていいか?」
「…好きにすればいい。」
酔狂な、と呟きながら、「それ」はゆっくりと伏せていた顔を上げてピオニーの方を見た。
その顔を見て、彼は少しだけ眼を見張る。容貌に驚いたのではない、
垂れた前髪の隙間から覗く、一対の小さな角がその額に生えているのを認めたからだった。
それは畸形と云うにはあまりに自然で、ピオニーには、其の姿は少女にとってごく当たり前のものであるように感じられた。
そして、気配に敏感なはずの自分が今まで何も感じていなかったことに、納得さえしていた。
この少女は根本的に自分とは「違うもの」だ、と彼は理解した。
「お前は何なんだ?」
ピオニーは少々驚いたものの、その姿を見てさえ面白がる様な笑みを絶やさない。
そして何の躊躇いも無く近寄り、無造作に彼女の隣で胡座をかいて座り込んだ。
「…人にあらず。」
少女は胡乱気に少々眉を顰めながらも、短く答えた。
無遠慮に近付いて、あまつさえ勝手に隣を陣取って笑うピオニーを、彼女は心底呆れたようにじろじろと見遣る。
少女は、普通は人間には視認できない類いのものだ。
人ならざる己を見つけられただけでも随分と珍しい人間だと彼女は思った。
しかも、この異形の姿を見ても動じず、やけに楽しそうな顔と声音で尚も問いを重ねてくるではないか。
酔狂としか云い様が無い。
ピオニーはそんな少女の視線を気にせず、好奇心の趣くままに彼女に話し掛け続けた。
「お前は魔物か?水精か何かか?それとも何かの意識集合体か?」
「わたしはわたしだ。」
「ほう、なら、お前の名前は何と云う?」
「…」
名を問われて、躊躇した。少女はピオニーから視線を外して暫し口を閉じ、
ぼんやりと闇の底に沈む庭の風景を見遣ったが、やがて小さな声で呟いた。
「…………。」
「そうか、か!良い名だな。
俺はピオニーと云う。」
何が嬉しいのかにっと笑って鷹揚に名乗り返したピオニーに、は顔を顰めた。
やけに馴れ馴れしく、物怖じしなさすぎるピオニーが、彼女には少し苦手に思えた。
人間ごときに何が出来る、とも思うのだが、しかし踏み込まれ過ぎるのは厭だった。
「は此処に住んでいるのか?」
「先程から質問ばかりだ。」
「そうか、そりゃ悪かった。じゃあ今度はが俺に質問してみろ。」
「…どうしてそうなる…。」
あまりにもマイペースで無駄に自信に溢れたピオニーの物言いに、は呆れ果てる。
彼女は未だ池に浸していた指先を引き抜いて、ゆっくりと身体を起こす。
こちらに向かって胡座をかいて座るピオニーから、丁度そっぽを向くようにぺたりと地面に座り込んだ。
鬱陶しい程にを構いたがる、このピオニーと云う酔狂な人間に付き合ってやるつもりは微塵も無かったのだが、
自分がわざわざ場所を移動するのも何となく癪に障る。
が立ち去らないのをいい事に、有言実行、にこにこしながら彼女が質問してくるのを今か今かと待ち構えるピオニーに、
彼女は何とも堪え難いものを感じて溜め息を吐いた。
は、何だか自分の方が余程人間くさいような気がしてきた。
「人の子、何故わたしに構う。」
「俺はピオニーだ、『人の子』なんて名前じゃないぞ!」
だから、何故そんなに無駄に自信に溢れているんだ。
威張るように堂々とそんなことを云う男に、は頭が痛くなる思いだった。
こんな面妖な人間、もう随分と長い事生きてきたが、今迄一度だって見た事が無かった。
人間とは生きる時間が違うにとっても、ピオニーは不可解としか云い様の無い存在だったのだ。
彼女は少し怖くなった。
怖いと感じた自分に、けれどは気付かなかった。
「…もうわたしに構うな。」
「何故だ?」
「わたしの世界とおまえの世界は、交わらぬものだからだ。」
「だが俺達はこうして言葉を交わしているじゃないか。」
「…人間と関わってもろくなことはない。逆もまた然り。
もう行け。わたしは二度とおまえには会わない。」
「なら尚更立ち去れんなぁ?」
がこれだけ表情も無く拒絶の言葉を並べているのに、ピオニーは気を悪くした様子一つ見せず、
相変わらずにこにこ、いや、にやにやと楽しそうに笑っている。
暫くピオニーを静かに睨んでいただったが、
柳に風と云うか、暖簾に腕押しと云うか、糠に釘と云うか、馬の耳に念仏というか。
とにかく、もう、全力で無意味なのが見るからにわかる。
どうにも憎めないその人懐っこさに、やがて根負けして眼を逸らした。
「はいつも此処に居るのか?」
「…夜だけだ。」
「なら明日の夜も此処に居るか?」
「…………ああ、いる、いるから、もうさっさと戻れ。わたしは疲れた。」
「おう、じゃあまた明日な!」
「…勝手にしろ。」
本当に自分勝手極まりない男だ。傍迷惑な。
上機嫌でに手を振りながら飄々と立ち去っていったピオニーの後ろ姿を、恨めし気な眼で睨みながら見送った。
睨んだところで無意味だと分かってはいたのだが、としては、そのくらいしてやらなければやり切れなかった。
ほんの短い邂逅であったが、あの男、明日来ると云ったら、絶対に、本当にやって来るに違いない、とは確信した。
には人間の考える事はよくわからないが、この確信には自信が持ててしまった。
残念ながらな、とはちょっと自棄になって胸の内で付け足した。
迷惑だ鬱陶しいと毒吐きながら、けれど何処か胸がそわそわしているのを、は見ない振りをした。
(11.3.10)
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