Rebirth in the cradle.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

覚悟するとは云った。

確かに云った。

其の事自体にはもちろん異存等無い、自ら決めて選び取った事だ。

ああ、覚悟はあった、が。

 

「…………わぁ…すごい…山ができたぁ………。」

 

ぼそりと小さく独り言を呟けば、隣りのデスクから心底同情と不安の籠った視線が私を痛い程刺している。

私のデスクの周辺からは、何とも云えない気まずい沈黙が漂っていた。

 

「…気持ちはよくわかるがな…現実逃避するな、しっかりしろ、伍長。」

 

後ろを通り縋ったブレダ少尉の溜め息混じりの静かな激励が耳を素通りしかけたが、

何とか意識を戻して、はい、と平生の歯切れの良い返事を返す事に成功する。

自分の机を見下ろして呆然と立ちすくんでいたが、気を取り直して何事も無かったかのように椅子に掛け、

私は視線よりも高く机に積み上げられた書類の山をとりあえず二つに分けて端に寄せ、

其の一方の山の一番上の書類から地道に手を付けて行く事にした。

と云うかそうするしか無かった。

 

先日のテロリストによる武器庫襲撃事件から数日、相変わらず東方司令部司令室は大量の書類が飛び交っていた。

『存分に働いて貰うからな。覚悟しておきたまえ。』とは、あの事件の折に大佐から賜った有り難い言葉だ。

少なからず私の追従を認める、此れ以上無い信頼の証であるように思えて、とても嬉しかった。

だが、「覚悟」の意味が少々変わって来ては居ないだろうか、と疑問を抱きそうになるのを振り切り、

私は積み上げられた書類の山の方を見ない振りしながら、一枚一枚の処理にのみ集中するよう努めていた。

 

あの一件以降、私に振り当てられる書類が明らかに増えていた。しかも激増だ。

確かに其れ迄は新人の研修期間のような扱いをされていて渡される仕事は少なめであった事も事実だが、

慣れて来て処理速度も上がって来たとはいえ、一体、どうしてこんな事に、と思わずにはいられない。

 

疑問を持った方が負けなのだと己に云い聞かせ、ただひたすらに書類に没頭した。

要領が解って来てはいるし、デスクワークも嫌いではない。

こういった細かく面倒な仕事を私達下の者が着実にこなしてゆく事で、

少しでもマスタング大佐の余計な負担が減るのであればと思うと、頑張れる気がした。

 

「なんか、自分を騙してねぇか…?」

 

「……………そんなことはありません。誠心誠意頑張ります。」

 

即答できなかったのは否めないが、私はハボック少尉の呆れた声を聞かなかった事にした。

 

 

 

 

 

 

 

「もう定時過ぎてますけど、伍長まだ帰らないんですか?」

 

やや心配そうにフュリー曹長が私に声を掛け、ふっと書類から顔を上げて壁の時計を窺うと、

曹長の云う通りとっくに私の上がる予定だった時刻を過ぎていた。

一心不乱に書類と格闘していたせいで、随分と気付かぬ内に時間が経っていたようだった。

曹長は確か今日は夜勤だったはずだ。

彼がいつの間に司令室に来ていたのかも気付かなかった。

 

「はい、明日の昼が締め切りの書類なので。まだ掛かりそうです。」

 

「でも、確か昨日も司令部に泊まっていたとハボック少尉から聞きましたよ。

 大丈夫ですか?あまり無理しない方がいいですよ。」

 

昨日は昨日で、今日の朝一に提出しなければならない書類が山積していた為、

定時に一旦帰宅して着替えと食事を手早く済ませて再び司令部に戻り、

深夜迄掛かって何とか処理し終えたところで、仮眠室に泊まり込んだのだった。

曹長に心配されてしまう程度には少々疲れが溜まっていたが、締め切りを破る訳にはいかなかった。

 

此処最近積まれる書類の山は、何故か提出期限がかなりぎりぎりのものばかりで、

ふと思い出して慌てて持って来たかのように私の手元にどさりと渡されて行く事が多い。

其の原因等私は考えようともしなかったし、考えたくもなかった。

誰とは云わないがあまりにはっきり心当たりがありすぎるので、此処は敢えて知らない振りをしておくべきだと判断する。

何度も云うが疑問を持った方が負けなのだ。何かと勝負した覚えはないが。

 

「睡眠はきちんと確保しているので、大丈夫です。

 御気遣い有り難う御座います。

 フュリー曹長も…その、大変ですね…。」

 

ちらりと曹長の机を見遣れば、彼のデスクにも結構な量の仕事が横たわっているようだった。

私に与えられた仕事は簡単だが細かい作業と時間を必要とする。要するに誰でも出来るが面倒なものだ。

彼の仕事の方が私よりも責任を要する複雑な案件が回されているのは確かだろう。

其れを思うと、安易に頑張って下さいとも云えず、気まずさに言葉を濁すと、はは、と彼は渇いた笑いをこぼした。

 

何だか生温い気分になった所で曹長も自分のデスクに戻り、私は固まった身体をぐっと伸びをして解しながら、

とりあえずコーヒーでも入れて休憩しようと数時間ぶりに席を立った。

 

自分の分と、フュリー曹長を始めとする夜勤組の人の分をと思い、

錆び付きがちな脳を叱咤して用意すべきコップの数を頭の中で勘定しながら、給湯室に向かう。

眼が疲れていて、何だかまだ目の前に書類に踊るアルファベットが見えるような気がする。

 

コーヒーを入れて、明日の分の書類を仕上げて、遅くなるようならもう一日だけ仮眠室を借りて、

そうしたら私は明日は早上がりなので急ぎの仕事さえ入らなければ十分に明るい内に帰宅できる。

調整が会わずにもう一週間以上休みが取れていないので、そろそろ無理にでも休日をもぎ取らなくては、

等とつらつら考えながら手を動かせば、いつの間にかコーヒーを入れ終えていた。

 

此の作業にも慣れたものだな、と、自嘲にも似た笑みが浮かぶ。

此処に来る迄、私はコーヒーを入れる機会などほとんど無かった。

こうもひたすらに仕事に追われ続けていると、一年前迄の生活がまるで夢か幻であったかのようにさえ思えてしまう。

遠く迄来てしまったなと思い、その認識に少しぞっとした。

 

記憶に罪を刻む戒めと云う意味でも、かけがえの無い仲間達と共に生きた時間を忘れないと云う意味でも、

私は忙しさを理由にあの日々の記憶を風化させてしまう訳には絶対にいかないのだと強く感じていた。

人間は大事な事程きっとすぐに忘れてしまう、残酷でかなしい生き物だ。

時間の風化に逆らってでも記憶に刻まねばならぬ事が私には沢山有るのだと、

そう感じれば感じる程に瞼に浮かぶのはやはり「あの場所」だった。

 

足を引きずるように部屋に戻ってコーヒーを配り終えると、一つ息を吐いて再び書類に向かい合う。

此の様子では確実に仮眠室のお世話になりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

一夜明け、何とか無事に書類を閉め切りぎりぎりで提出する事が出来た。

案の定出来上がったのは深夜0時をやや回った所で、予想通り再び仮眠室で眼を覚ます羽目になった。

睡眠時間は最低限必要な分は確保していたが、どうにも蓄積した疲労はそれだけでは拭えず、

昼休みにも昼食後すぐに司令室に戻って机に突っ伏して昼寝をしていた。

 

そうして何とか今日の仕事を乗り切り、今日こそはと定時きっかりに席を立った。

最近は皆それぞれに随分と忙しいらしく、帰り際に廊下ですれ違ったホークアイ中尉も少し疲れた顔をしていた。

いつもは大佐の補佐(と云う名の見張り)を主にしている彼女だが、今日は大佐は非番だそうで、

今の内にとばかりに自分の仕事を猛然と処理しているらしい。

 

お疲れ様です、と声を掛ければ、貴方も、と二人でやや苦笑を交わして司令部を出た。

中尉は最近よく私に笑顔を向けてくれる。

彼女のふっと見せる小さな笑顔はとても心が暖かくなる表情だった。

 

司令部入り口の階段をよろめきながら降りていると、危うく足を踏み外しそうになる。

身体は重いのだが頭がふわふわして意識が覚束無い。

自分が思っている以上に実は相当疲労しているらしかった。

仕事の疲れだけでなく、環境への順応の為に気を張っているせいもあるのだろう。

新しい人間関係の中に入って行く事は、ずっと閉鎖的に生きて来た私にとっては少し大変な事だ。

 

(でもまぁ、疲れてると云えるんなら、まだ大丈夫だな。)

 

本当に憔悴しきってしまった時は自分の状態の認識すらできなくなる。

仲間と共にかなりきわどい所迄軍に追い詰められて暫く隠れながら逃亡生活をした事があったが、

あの時の方がもっと生命の危険を帯びる程疲労していたように思う。

 

(…比較対象が間違ってるか…。)

 

肩に掛けた鞄の持ち手がずるりと滑り、緩慢な仕草で其れを掛け直しながらふらふらと家へと向かう。

私は今、司令部から少し離れた静かな住宅地の一角にひそりと建つ小さな古いアパートの一室を借りて其処に暮らしている。

狭いしお世辞にも綺麗とは云い難いが、殆ど寝に帰るような状態なので十分だ。

軍の寮に入ろうかとも考えたのだが、あいにくと空き部屋が無かったので諦めた。

 

教官は生活が安定する迄まだ暫く此処に居てはどうかと提案してくれたが、丁重に辞退した。

これ以上お世話になるのも申し訳ないと思ったからだったのだが、

部屋を借りるにあたっての資金援助や後見人としての手続きで結局は随分と手間を取らせてしまい、

かえって面倒を掛けて申し訳無いことをしたのではないかと後になって少し後悔した次第だった。

また改めてきちんと近況報告とお礼を兼ねてご挨拶に窺うつもりだ。

 

余計な事を思い出して少し気分を沈ませながらも何とか部屋に辿り着き、

けれど私は余分な荷物を玄関に放り込んだだけで室内には入らず、そのまま再び家を後にした。

 

本当なら少しでも長く泥のように眠ってしまいたかったが、今を逃すと次が何時になるのかわからないので、

どうしても瞼から離れない「あの場所」に心ばかりが先走って向かおうとするのだ。

一度気になってしまったら、もう今行くしかないと強く感じていた。

 

近くの大通りを行き交う車の音を背に住宅街を通り過ぎ、町外れの空き地を横切り、

其の右手に広がるこんもりとした林に踏み入って、迷い無く目的地に向かって、

あまりに慣れた道の無い道をひたすらに掻き分け歩いた。

 

一年以上訪れる事の無かった此の道を、忘れ掛けているものだとばかり思っていたけれど、

いざ足を踏み入れればつい昨日の事のように鮮やかに脳裏に記憶が蘇って行く。

色褪せぬ鮮烈な記憶達は、かなしくなる程、私と云う存在の隅々に迄焼き付いているのが厭でもよくわかった。

 

そして唐突に開けた其の視界に、ひどく焼け焦げ、半壊して、無惨に朽ち行く姿を晒す建物の残骸が飛び込んで来た。

其れが見えた時点で私の足は凍り付いたようにぴたりと止まり、動く事はおろか息さえも止まるような心地になる。

 

フィデール、リナルド、レオンハルト、マシュー、オリバー、アンソニー、ギルバート。

あそこに、あちらに、あの辺りに、この辺りには、と、あのかなしい日の悲惨な情景がフラッシュバックして、

気付けば生々しい鉄の匂いが辺りに充満し、足音と怒声と爆発音と発砲音が割れんばかりに耳の中で掻き鳴らされる。

 

幻覚だと解っていたが、とても耐えられなかった。

きつく眼を閉じ吐き気を堪えて口元を押さえ、私はこめかみを伝う厭な冷や汗を拭う事も出来ずに思わずその場に踞った。

ああ、駄目だ、と泣きそうな気持ちになって喉の奥がぎゅっと詰まる。

 

もう終わらせたと思っていた。

けれど、私の中ではあの日が未だに終わっていなかった事に、今更になって気付いたのだ。

割り切る必要はないけれど、記憶を記憶としてちゃんと終わらせてあげることが出来ていなかった。

私はちゃんとあの日を終わらせて、彼らを、仲間達をきちんと眠らせてあげなければならないのだ。

 

ゆるゆると顔を上げると所々に地面の焼け焦げた後がまだ残っている。

それほどに、強く、強く、焔が熱を刻んだ証拠だろう。

 

(大佐……大佐…マスタング大佐…。)

 

心の内で何故か、縋るようにかの人の名を繰り返していた。

こんなにもひどい気持ちであっても、私はそれでも大佐を憎む事が出来なかった。

それどころか、其の名が私に安堵を与えてくれた。

 

其の事実に私はむしろ救われていた。

大丈夫、私は揺るがない。私の決意は確と此の心に刻み付けられている。

あの人に全てを捧げる事を、私は決して間違いだとは思わない。

 

よろめきながら立ち上がり、私は幻覚を振り切って廃墟と化したかつてのアジトに近付いた。

扉があった辺り、今は只、壁に開いた大きな崩れかけの穴でしかない其処の前迄来た所で、私は驚いて唐突に後ろを振り返った。

背後にはただ林が広がっているだけであまりに静かではあったが、確かに其の中に、彼の気配を感じた。

私は何があってもきっと此の気配だけは間違う事は無いだろう。

 

「…マスタング大佐…?」

 

驚きながらも確信を持って其の気配の主の名を呼び掛ければ、暫くして、林の暗がりから大佐がすっと姿を現した。

幻覚かと思ったが、確かにそれはマスタング大佐その人に違いなかった。

私服姿の彼はゆっくりと林から出てこちらに歩み寄ってくる。其の顔は少しばつが悪そうに顰められていた。

 

「やれやれ、気配は消していたつもりだったんだがな。」

 

「…私もテロリスト生活が長かったもので。」

 

未だに其の頃の癖は抜けないのです、と苦笑してみせた。

 

「何故こんなところにいらっしゃるのか、御聞きしても宜しいでしょうか。」

 

「…今は勤務時間外だ、そんなに改まる必要は無いよ。

 何、君が鬼気迫る様子で一心に何処かへ向かっているのを偶然見掛けただけだ。」

 

其れで後を付けてくる、と云う発想はあまり褒められたものでもないなとは思ったが、私はただそうですかと微笑むに止めた。

疑惑であれ心配であれ、どちらにせよ自分に何らかの感情を向けてくれる事は幸せな事だ。

他でもないマスタング大佐に自分の存在を無かった事にされてしまうのは、今ではこの世で一番辛くて怖い事だと思う。

 

「弔いか。」

 

「自分の記憶を弔いに来たのです。

 …此処へ来るのに一年も掛かってしまいました。

 罪を罪として、思い出を思い出として、きちんと終わらせないと、前に進めません。」

 

「…どうして君は其処迄する。」

 

淡々と問われたその質問の意図を受け取り損ねて、私は疑問を表すように大佐の眼を見上げた。

彼は少し離れて私の斜め後ろに静かに佇みながら、眠る廃墟をただ眺めやっていた。

その黒い眼が本当に目の前の廃墟を見ているのか、それとも見えない何かを見ているのかはわからない。

どんな色を浮かべていたとしても、それは私にとって世界の標となる強い漆黒だった。

其れは光よりももっと眩しい黒。

 

「憎む方が簡単だったろう。」

 

吐き捨てるように云われて、何だか少し胸が痛んだ。

この人は後悔等していない、けれど其の代わり、後悔する事で昇華する筈だった痛みを、

未だに自分の中の檻に閉じ込めて放てぬまま、ずっと飼い殺し続けているのだろうか。

其れは永遠に鎮火する事の無い業の焔だ。

 

「あなただって、殺す方が簡単でした。」

 

自分の立場を危うくして迄私を助けた癖に、と言外に含ませてみれば、

彼は駒にする方が自分の利となると判断したからだと無感情に云ってのける。

利益に貪欲になればこそ私をあのまま牢屋に送り込む方がずっと簡単であると、

私がそれに気付かないとは思っても居ないくせにと思うと、私は何だか笑ってしまいたくなる。

結局彼も私も、あれから本当の意味では何も変わっていないのだ。

 

「公園で大佐に初めてお会いした時のことを今でもよく覚えています。

 ハンカチを手渡されて、正体がばれやしないかと怯えていた私をよそに、

 大佐はにこにこしながら私の名前を尋ねられました。

 いつもなら偽名をつかってはぐらかすのに、あの時は焦るあまり、つい本名を答えてしまったのです。

 アジトに帰ってからも、結局最後迄、私はその事を、一度も仲間に話せませんでした。

 私に普通の少女に対するように話し掛けてくれて、笑ってくれたのが、ただ、とても嬉しかったんです。」

 

ずっと自分の身の内に伏せて黙っていた言葉が零れて行く。

きっと此の場所でなければ云えなかった。

 

「大佐の顔もしらなかった頃は、仲間達を脅かす『焔の錬金術師』を憎く思った事も有りました。

 でも、『焔の錬金術師』ではなく『ロイ・マスタング』として認識してしまえば、

 結局どうやったって私は貴方を憎む事が出来なかったし、貴方の笑った顔を忘れる事も出来ませんでした。

 嬉しいとか、だいすきだとか、一度抱いた感情を無かった事には出来ないんです。

 仲間を裏切る事も絶対にできないし、大佐や軍の人たちをあれ以上殺すのもいやだったし、どちらを止める事もできなかった。

 皆幸せであればいいと願ったけれど、一方が生きれば他方が死ぬ、

 そんな状況で、私の無力さではとても叶う願いでもなかった。

 どうすれば、もう少しマシな結末を選べたのだろうかと、それだけは今も答えが出ません。

 …そんな葛藤の末に出した結論が、あの一発の銃弾だったんですけどね。」

 

私の潜伏する部屋に踏み込んで来た、あの時の大佐の顔も忘れ難い。

ただ涙を垂らしながら自分に銃口を向ける子供を見て、一体彼は何を思っただろう。

死に損なってきっとひどい顔をしていただろう子供を見て、何を考えたのだろう。

 

「私は大佐に出会えた事を一片たりとも後悔していません。

 軍人になって大佐に従うと決めた事も何一つ躊躇いは有りません。

 私は大佐の為に生きるのではなく、大佐に従うと云う自分の確かな意志の為に生きます。

 命令してください。私はそれに従います。

 命令に強制されるのではなく、命令に従う事が私の意志なのです。」

 

「…私はとんだ厄介な拾い物をしたようだな。」

 

マスタング大佐がふっと溜め息を吐いたのに気付いて振り返れば、彼は呆れたように笑って、私の頭に静かに触れた。

ああ、これじゃまるでデジャヴュだ。

其の触れ方が、もう永遠に失ったのだと思っていた、あの時のような、あまりにやさしい掌の感触で。

思わず理由の解らない涙がこぼれそうになる。眼の奥が熱くて、喉を塞ぐような衝動。

 

懐かしくて暖かくて、私は胸が痛くて、息苦しくてしょうがない。

でも此の痛みは、もうあの時とは違う痛みなのだ。

恐怖でもなく、罪悪感でもない。

もっと別の、どうしようもない程の、温かな。

 

はたりと耐えきれずに瞬いた眼から、もう雨滴のように涙が止まらなくなっていた。

滲んで水底のように朧げな視界では大佐がどんな顔をしているのかは認識できなかったが、

私を緩く抱き寄せて、こぼれてこぼれて止まらない熱い雨の流れる私の頬を何度も拭う其の指が、甘い毒のようにやさしかった。

此の毒は一生を掛けて私の身に染み行くのだろう。

 

家族を亡くした幼少の頃よりずっと、自分は死ぬべき時を逸しているだけの生き物であると信じていた。

 

自分が生きていることを実感し、そしてそれを嬉しいと思えたのは、きっと生まれて初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

(08.12.19)

 

 

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