9

 

 

 

 

 

「す、すみません。」

 

開口一番私の口から蚊の鳴くような声で発せられたのは、それだった。

部屋の隅の壁に背中をぴたりと付けて固まっている私を見て、

マスタング大佐と其の補佐官であるホークアイ中尉は、一瞬呆気にとられた顔をした。

後ろでハボック少尉が必死に笑いを噛み殺そうとして失敗しているのが見えて、余計に自分が情けなくなった。

こんなに緊張したのは此の世界に来て初めてかも知れない。

そもそも私は「物語」の傍観者になるつもりではあったが、

渦中の人物達と接触したいだなんてあまり考えた事が無かったものを、

予想外の事ばかりが重なって、よりによって最も予想外な出来事が今こうして現実になってしまっているのだから。

ああ、どうしたものか。

 

「…あの、どうぞ、お掛け下さ、い。」

 

少尉は既に我慢せず後ろでけらけら笑うばかりでフォローも期待出来ず、

沈黙と視線に耐えかねて、取り敢えず椅子に座る事を勧めてみた。

先に動いたのはやはりと云うか、大佐だった。

彼はにこりと上手な作り笑いをした。

 

「君は座らないのかね?」

 

「えっ…あ、す、座り、ます、か…?」

 

聞いてどうする、と、少尉がまた笑い、平常の表情に少しだけ困惑を浮かべた中尉が視線でそれを諌めた。

私の様子を察した中尉に促されて、大佐が先に座ってくれたので、私ももう逃げられず、恐る恐るではあったが反対側の椅子に腰掛けた。

住み慣れた自分の家のはずなのに、何故かあまりにも居心地が悪くて、それを紛らわす為にも中尉と少尉にも座るよう勧めてみた。

最初はこのままでいいとやんわり断られたが、大佐も座るようにと二人に指示した事もあって、

結局気まずさは変わらぬままではあったが、大佐と中尉、その向いに私と少尉が並んで座る形に落ち着いた。

 

しかし私の頭の中は一向に落ち着かなかった。

少尉が腕を小さく小突いて、にっと笑った。

一応緊張をほぐそうとしてくれているらしいことは分かったのだが、少し引き攣った苦笑いを返すので精一杯だった。

ああ、何を話す為に此の人達に来てもらったんだっけ。

 

「さて、」

 

私が口を開き倦ねていると、先に大佐が私に質問してくれた。

 

「知っているかも知れないが、私が東方司令部司令官、ロイ・マスタング。地位は大佐だ。

こちらは部下のホークアイ中尉、ついでに君の隣にいるのが同じくハボック少尉だ。」

 

中尉が小さく会釈してくれたので、私も会釈を返す。

警戒はされているようだったが、彼女からは別段敵意のようなものは感じられなかった。

一応、とばかりに紹介された少尉は軽く口端を釣り上げて肩を竦めてみせた。

 

「まずは確認させてもらうとしようか。

ここ十年程、同じ手口で謎の黒装束の者による金品の窃盗が断続的に発生している。

その犯人が君、と云う事で、間違い無いんだね。」

 

「あ、はい。」

 

「なるほど、犯人像は5、60代の男であるとの情報もあったからな、

まさかこんなに若いお嬢さんが犯人だったとは、俄には信じ難いね。」

 

「え、あ、いえ…。」

 

どう返事をして良いものか判じかねた。

相変わらず微笑を浮かべてはいるが、其の本心はまったく見えなかった。

こちらを鋭く警戒する観察者にも見えたし、ハボック少尉のようにそれなりにこちらに歩み寄ろうとしていると見えなくも無い。

無能だなんだと云うイメージはあれど、やはり実物を前にすると妙に背筋が強張って指先が冷えた。

頭の中の警鐘は鳴り続けたまま止む気配は無い。

 

「名前を教えてもらえるかな。」

 

余程緊張しているのが顔に出ていたのだろう、大佐は苦笑して、先程より少し柔らかい声音で必要な質問事項を問う。

隣に着席するホークアイ中尉がファイルを開き、何枚かの書類にペンを走らせていた。

 

です。」

 

「女性にこんな事を聞くのは失礼かも知れないが、此れも仕事でね。

年齢も教えてもらえるかい?」

 

ああ、そうきたか!

早くも二つ目の質問で躓いて言葉に詰まる私に、そう云えば、と少尉が口を挟む。

 

「そういや見た目程若く無いっつってたな。

そんなに云い辛いか?」

 

性格上、嘘はつけない。けれど、本当の事など、云えようはずもなかった。

 

「いえ…本当の年齢は、私にも分からないんです。」

 

何とか絞り出したのは、何十年ぶりに使ったかわからない、記憶喪失という言い訳だった。

とりあえずの出身地はあの小さな村だと答え、ハボック少尉に偽名では無いが本名でも無いと濁したその理由も織り交ぜながら、基本的な情報に答えて行った。

アドリブに弱い私の事だ、恐らくは後々ぼろが出て面倒な事になるのは流石に予測が着いた。

しかしながら、本当の事を話さざるを得ないとしても、

それを話すのは限り無く怪しい自分の状況を少しでも改善した後にしたかった。

少なくとも、交渉がきちんと成立してからだ。現時点を乗り切れれば今はそれで良しとする。

 

「質問はこのくらいにして、そろそろ本題に入ろうか。

さて、先程其処にいるハボック少尉から聞いたが、取り引きをしたい、との事だったね?」

 

ようやく本題に辿り着いたと云うのに、もはや私は疲れ切っていた。

昨日の夕刻に少し仮眠はとっていたが、それでも夜通し緊張し続けて、気の休まる暇も無く今に至る訳だ。

ああ、倒れて仕舞えれば楽なんだがなぁ、といい加減な逃避願望を何とか隅に押し退けて、一つ深く呼吸した。

 

「…せ、先日、あの、テロ組織のアジトを捜索して、結構な数の逮捕者が出ていましたよね。」

 

「うん?あぁ、先月末に捕えた自由同盟軍の事か。」

 

「あれ、リークしたの、私なんです。」

 

少尉が呆気にとられた顔をして私を見た。大佐と中尉も、あまり表情は変わらないながらも少し驚いているように見えた。

驚くのは私も同じだ、まさか先月の何気ない行動が此処まで現状に響いてくるとは思わなかった。

犯罪を計画するにはまず情報が必要だ。其の情報集めは「共犯者」がいた頃から自分の担当だった。

裏の世界に耳を澄ませれば、自然とそんな話も聞こえてくるのは必定。

いつもなら余計な揉め事を避ける為にも非干渉を貫く所だったが、先月の話はどうしても聞き捨てならなかった。

 

耳にした彼等のテロ計画はあまりに杜撰で行き過ぎた行為であったし、

軍どころかむしろ多大な被害を被るのは何の罪も無い市民達であることは明白だった。

独裁的な軍事政権とそれに反抗するテロ組織、どちらがより悪いなどと善悪の線引きをするのは私の領分では無いが、

内容を察すれば計画を実行させる訳にはどうしてもいかなかった。

 

「…つまり、君は奴ら反乱分子に関する情報を売る代わりに、自分の罪を見逃せ、と?」

 

ああ、こいつは間違い無くロイ・マスタングだ、と私は内心舌打ちした。

私の神経を丁寧に須らく逆撫でしようとでもするように、わざと嫌な言い方をする。

今のこの人の眼は、明らかにこちらの出方を窺う「観察者」のそれだ。

ああ、遠くから見るにはいいが、この人、私は苦手だ。

 

「そうです。」

 

なるべくはっきりと、声が震えないように細心の注意を払って肯定した。

畏縮しているせいで私はずっとうつむき気味だったが、此処はしっかりと意志を通さなければ全てが駄目になってしまうような気がした。

初めてしっかりとロイ・マスタング大佐の眼を見据えていると、無性に手が震えた。

奥が見通せない黒い眼は、夜の海を覗き込むような気分だった。

ああ、そう云えば、此の世界に来てから、一度も海を見ていない、などと全く関係の無い事が頭に浮んだ。

 

一瞬の沈黙が何時間にも感じられた後、にやりと彼は不敵に笑った。

 

「…ふむ、よかろう。

君の持つ情報が、こちらにどれだけ価値のあるものかにもよるが、

其の条件でまずは手を打つとしよう。」

 

一応は大佐のその発言により、交渉自体は前向きに前進したように見えた。

少尉がぽんと私の頭を叩いて、よかったな、と云ってくれたが、私は大佐の言葉が何だか引っ掛かって不安になった。

情報が彼等の要求に満たないものであれば、私の自由は確立されない。

そこらへんの交渉はまた改めて詳細を話し合う必要があるという意味合いを含んでいるのは理解出来るのだが、

出来れば彼等の納得する基準線が知りたいと思った。

 

「あの、すみません。…その、価値って、どうやってはかればいいものなんでしょうか。」

 

恐る恐る口にすると、其の質問が意外だったのか、大佐は少し眼を見開いて、笑った。

 

「君は何故、先日の情報提供をしたんだね?」

 

「え?…えと…」

 

突然問い返されて戸惑い、ふと何気なく視線を向けた先に居たホークアイ中尉と眼が合ってしまった。

睨まれるだろうか、と少し身構えたが、彼女は少しだけ微笑んで頷き、先を促した。

少しだけほっとした。

 

「聞こえて来た、あの人達の計画が、あんまり酷かったからです。

関係ない人達を巻き込み過ぎるので。

見て見ぬ振りを、仕切れなくて、それで、中途半端、に。」

 

知っていても何もせず、ただ傍観者でいるしかできない私に、偉そうに正義感を翳す権利などあろうはずもなかった。

我が身可愛さに、たくさんの事を見て見ぬ振りをしてきたくせに、

今頃になって自分の罪悪のツケを払うと云う時に、怖じ気付いている。

考えれば考える程、取り繕う事もできない程の夥しい身の内の穢濁で身動きが取れなくなっていた。

自己嫌悪の余り、最後迄言葉にならなかった。

 

「そういうことだよ、くん。」

 

相変わらず由来の分からない笑みを浮かべて、彼は云った。

 

「君の事情がどうあれ、君のもたらした情報は我々にとって有益だった。

君が自分をどう評価しようと、テロは未然に防ぐ事が出来たし、

死ななくても良い人間が死なずに済んだ。

其の結果に、価値があるかどうか、だ。

此れは主観論かもしれないね。君はどう考えるのかな?」

 

返答に詰まって、それでも口を開こうとしたが、言葉はどうして何も出て来なかった。

ただ戸惑い黙って瞬きすることしか出来ない私を、気にせず彼は話の続きを再開する。

 

「そうだな、今日の所は取り急ぎ此の辺りにしておこうか。

私達はこれからまた仕事が山積みでね。

詳細は後日改めて話し合うとしよう。

最終的な決定ができる迄、君は軍の監視下にいて貰う事になるのだが、

其の辺りは御容赦願いたい。

それがこちらとしても出来うる限りの譲歩なんだ。」

 

「はい、もちろんそれは。…あの、監視下、とは?」

 

「ああ。すまないが、此の家の出入り口に見張りを付けさせてもらうよ。

取り敢えず其処のハボックを置いていく。

司令部に戻ってから後程交代を寄越そう。いいな、ハボック?」

 

「あー、まぁ、いいっすよ。」

 

「…あ、私、普段お仕事をしているんですけど、暫く休んだ方がいいんでしょうか?」

 

「そうしてもらえると有り難い。

そうだな、数日中には改めて話し合いの場を設けよう。」

 

そう云うと、大佐は悠然と笑って右手を差し出した。

一瞬其の意味を掴み損ねたが、すぐに握手を求めているのだと気付いて、手を差し出そう、と、したが。

 

「…、おまえなぁ、握手くらい緊張する程の事もねぇだろが。」

 

「…」

 

何となく恐ろしくて、中に浮かせた中途半端な手はなかなか大佐の手を掴めずにいた。

恐らくはまだ震えているだろう手を差し出すのに躊躇していると、ほれ、とハボック少尉に無理矢理掴まされた。

大佐は思わず固まった私と結局震えが止まらなかったその手に苦笑しながら、軽く握手して手はすぐに解放された。

 

私の手の指先の冷たさに反して、大佐の手は大きくて、そしてとても暖かかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(08.9.16)

 

 

 

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