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それからまた何年も、働く傍らで錬金術の勉強をのんびりと続けていた。

安定した収入を得られるようになってから小さな部屋を借りて其処で生活するようになると、

部屋には未読、既読問わずに蔵書量がじわじわと増えて行く。

 

勉強を始めて暫くした頃から気付いたのだが、

私の頭はどうやら元の世界にいた時よりもほんの少しだけ回転が早くなっているように思えた。

難解すぎてとても理解出来やしないのではないかと思う資料も、じっくり読めば不思議ときちんと頭に入ってくれる。

それは本当に微妙で些細な変化ではあったが、錬金術の為の勉強をするには其の些細な変化も大いに役立った。

 

ただ、それと同時に、自分の奇妙な変化に得体のしれなさ、不気味さも感じていた。

私の身に起きた変化はそれだけではなかったのだ。

 

老婦人の家で世話になっていた時から薄々感じてはいたのだが、怪我の治りが異常に早くなっているようだった。

包丁で指を切った時も、火傷した時も、ほんの2、3日で気付けば痕も残らずに治っていた。

ずっと妙には思っていたが、其の異常性にはっきりと確信を持ったのは、

仕事を始めて暫くした頃に腕に少し大きな切り傷を負った時だった。

 

今迄の怪我や火傷は小さなものだったのでそんなに大袈裟に異常さを感じなかったが、

通常なら到底2、3日では治りそうもないその傷が、2日と経たずに完治したのだ。

 

怪我は早く治るにこしたことはない。痛いのは嫌いだ。

しかし、あまりにもそれは正常の様相と掛け離れていた。

 

何かは分からないが、何か、とてつもなく嫌な予感がしていた。

私は今迄以上に怪我をしないよう注意するようになった。

 

 

 

嫌な予感程よく当たるものだという認めたくない事実を認めざるを得なくなったのは、

こちらの世界に来てから20年が過ぎた頃だった。

 

其の頃になるともうこちらの世界に生活する事にもすっかり慣れて、

住んでいた小さな街からイーストシティーに住処を移していた。

やはり文明の進んだ現代日本に生まれた人間としては、都会の便利さには抗えないのかもしれないなどと考えたりもした。

実際、地道に錬金術を勉強し続けているとだんだん資料にしろ何にしろ、

必要なものを手に入れるのには小さな街よりもこちらに住んだ方が早かった。

 

それでも最も便利なセントラルに居を移さなかったのは、

此の世界に来て初めて降り立ったあの村からあんまり離れてしまうのが内心心細かったせいかもしれない。

しかし、わたしはもうあの村を訪れることはできなかった。

其の理由こそが、あの怪我をした時に感じていた、嫌な予感が原因だった。

 

時間の流れと云うものは当然乍ら人々に老いをもたらす。

人間は生まれながらに平等だと鼻持ちならない識者達は云うが、実際は生まれながらにして様々な差異を抱えている。

ただ、老いと死だけは、年齢性別出身などから何一つ影響を受ける事無くもたらされる本当の意味での客観的な平等ではなかろうか。

しかし、私はその平等を、世界の慈悲を受ける事が出来なかった。

 

此の世界に来た当初からずっと仲良くしてくれた村の少女は、大人になり、

やがて村の若者と結婚して、今では二人の子供を立派に育てていた。

最後に村を訪れた時、彼女と村のはずれで立ち話をしていると、かつての少女はふと私をまじまじと見て、

ふしぎね、あなたはほんとうに、すこしもかわらないのね、と、静かに微笑んだ。

何処か寂しそうにも見えた。

 

私は胸の中が急に塞き止められたように息苦しくなって、言葉を絞り出す事さえ出来なかった。

意味もなく溢れそうな涙を塞き止めているのに精一杯で、

其の後彼女と何を話したのか、どうやって家に帰って来たのかも覚えていなかった。

ただ、嗚呼、もうあの村には帰れないのだと、漠然と理解した。

 

かつて薔薇色の頬をしていた少女は、当時より少しだけ、しかし確実に時間の流れを其の身に刻んでいた。

私と彼女は同い年だったはずだ。だのに、何時の間に、私だけ取り残されてしまっていたのだろう。

 

彼女の云う通り、私は何一つ変わっていなかった。

二十年という年月を考えると、それは確かに、異常な所に迄きていた。

 

本当はもうずっと、その違和感に、気付かない振りをするのが難しい事を知っていた。

解っていてもどうしても認められなかった。

しかし、彼女の其の一言は、私に静かに現実を現実と受け止めさせるだけの力があった。

 

私は世界に時間を取りあげられた。

確証があったわけではないが、其れが事実である事を知っていた。

そして皮肉にも、それは時を経る度に確実に証明されていった。

 

 

 

 

 

 

ふと気付くと、どうやら長く昔の事を思い出し過ぎていたようだ。

思わず出た苦笑いを噛み殺して古い錬金術書を元の場所へと戻し、幾らかめぼしい本を物色した。

本は好きだ。欲しい本を探していると一日などあっと云う間に過ぎてしまう。

手にする本は錬金術に関する研究書や資料が必然的に多くはあったが、

小説や絵本、小難しい論文や料理のレシピ本、様々なジャンルを垣間見るのは楽しい。

 

結局2冊の錬金術に関する本を選びだして貸し出し手続きをした。と云っても、

名前と貸出日、返却予定日を自分で紙に記入するだけと云う、本当に形ばかりのいい加減な手続きではあったが。

すり抜けた扉が閉まるか閉まらないかと云う瞬間に、背後から微かに、またどうぞ、と云う声が聞こえてきた。

 

その後、図書館の二件隣の売店で新聞を買って、私は帰路に付く事にした。

既に傾きかけた西日が眩しく、陽光は蜂蜜色に溶けて世界に注がれる。

甘い斜陽の色は世界を違うとも何十年経とうとも変わらず美しい。

朝焼けも夕焼けも青空も曇り空も、全ては同じ空。

見上げる間だけは全てを忘れる事ができる。

 

(ああ、でも、何一つ、私はわすれたくないのだよ、)

 

歩き乍ら、先程買った新聞にちらりと眼を落とす。

欄外に刷られた「一九一三年」の小さな印字。

 

(ようやっと、だな。)

 

私の知る物語の始まる迄、あと一年。

少しだけ振り返れば、無機的な白い壁を蜂蜜色に輝かせた東方司令部の大きな建物が見えた。

昼間見掛けたあの黒髪の軍人は、まだあそこで仕事をしているのかもしれない。

もしかしたら優秀な部下に書類をせっつかれて厭そうな顏をしているかもしれない。

少しふっと笑い、私はまっすぐ家に向かって歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(08.9.16)

 

 

 

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