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買い物を済ませた私は、街の中心部に程近い小さな図書館で読書がてら休憩することにした。
図書館と云っても軍の管理するような公立図書館ではなく、
読書好きが高じて蒐集した大量の本を道楽ついでに貸し出しているような気侭な個人蔵書の店だ。
お固い司書がいる訳でも無く、あまり広くは無い店内に無秩序、無造作に詰め込まれた古い本を、
好きなだけ入り浸って読める所が気安くて気に入っている。
店主の老人も温和な良い人柄ではあるが不用意に客に干渉してくる事も無い。
あまり人と接触を持ちたく無い私には有り難かった。
そこらに埃を被ったまま積み上げられている本の一つを手にとると、
其の下に積まれていた、見覚えのある懐かしい本が視界に入る。
思わず手にとってぱらぱらと見るとも無く眺め、笑いたいような泣きたいような心地になる。
其の本は初歩的な錬金術を教える古い入門書だった。
異世界に放り出された私が婦人に拾われてから数年の月日が流れる頃には、
私も大分と英語が自然に口を付いて出てくるようになった。
婦人や仲良くなった村の人間達となるべく会話をするように努めた結果だ。書く方も同様だ。
村人達には最初は見慣れない外部の人間に対する戸惑いがあったが、
老婦人の仲立ちもあって次第に私を受け入れてくれるようになった。
そしてさらに数年が過ぎた頃、私を助けてくれた恩人でもある老婦人が静かな永遠の眠りについた。
後で死因は慢性的な心臓の病気だったと聞いた。
私がこちらに来る前からずっと煩っていたそうだが、
彼女は最期の最期迄、私にそんな素振りを一切見せなかった。
彼女のいない家はあまりに寂しくて、私は二度親を失ったような気がした。
記憶が無いと云う嘘を根拠に老婦人の好意にずっと甘えていたが、
いつまでもこうしている訳にもいかないと云う事にはずっと気づいていた。
前々から村を出る事を考えてはいた。
だが、決して、決してこんな区切りの付け方をしたかった訳では無いのに。
村人達と共に丁寧に彼女の亡骸を葬った簡素なお墓を前に、どうすればいいのかわからなくなり、私は途方に暮れた。
しかしながら、彼女がいつものように微笑んで私の背中を押してくれたような気がして、
私は御世話になった村人達に丁寧に、何度も別れと感謝の言葉を告げて村を出た。
名も無い小さなその村は、アメストリス国の東部に位置していた。
ほとんど村を出た事が無いとは云え、婦人と一緒に買い物をしに幾度かイーストシティーの中心部には行った事はあった。
しかしいきなり都会に出るのは何となく恐かったので、それよりもう少し小さな街でしばらく生活する事にした。
村を出る前に住み込みで働けるような場所をなんとか探しておいた。
甘やかされて生きてきた私がこうして自分の力だけで生きて行く事には不安ばかりが募ったが、
開き直って必死になれば人間なんだってできるものなのだなと後に苦笑した。
そうして何とか生活しながら、私はようやく、本来なら真っ先にするべきだった調べ物に着手した。
私が「こちら」の世界を異国、ではなく異世界、と迷い無く認識した理由は、この国の名を知っていたからだった。
「あちら」の世界にちりばめられる無数の物語の中の一つであり、私は其の物語を読んだ事がある。
幾らかは物語の経過や登場人物の辿る道もしっていた。
ただ、登場人物達の生き死にやら主要な事件やら、肝心な所には記憶に靄が掛かったようになり、
まるで記憶の虫食い状態で歯痒くも思い出せなかった。
そんな中を掻き分けるように、此の世界の歴史や現状をこそりと調べる内、
私は何処かに感じていた違和感の理由を漸く知る。
時代が合わないのだ。
軍事国家であり、大総統が国を統べる構図。
周辺諸国との諍いは絶えず、表向きは平和的友好関係を築いている国とも事実上はいつ開戦となるかも知れない膠着状態。
そんな情勢そのものは私が元の世界で読んで知っているアメストリス国と余り変わりは無いのだが、
現在に於ける大総統の地位を戴くのは、見た事も聞いた事も無い人物だった。
大総統キング・ブラッドレイの名は記録上にも記載が無く、起こった事件やうろ覚えの年号を思い出して考えるに、
1840年「現在」の此の世界は、私が読んで知る物語よりも70年以上も前のアメストリス国であるらしかった。
(地図を見れば、知っているよりもまだ領土も心持ち狭いように見えた。
確かアメストリス国が領土を積極的に広げ始めたのは、キング・ブラッドレイが大総統に就任して以降だった筈だ。)
自分の脳天気さを呆れもするが、実を云うと其れを知った時、少し残念に思った。
此処が70年以上も前であるとするならば、物語に読んだ流れを垣間見るには随分と待たなくてはならない事になる。
其れどころか、そんな途方も無い年数を此の世界で生きる自信も、正直あまり無かった。
何時元の世界に戻れるのか、もしくは戻れないまま一生を此の世界で生きるのか、
それすらも定かでは無い現状を思うに、物語がどうこうと云う気力はもうすでに無かった。
戻れる保証も戻れない保証も何一つ確たるものが存在しない以上、
私はとりあえず此の世界で安定して穏やかに生きていける方に尽力する事にした。
何とも情けない決意ではあるが、冒険をしたりスリルを味わったりと云うのは性に合わない事は私自身一番良く分かっている。
学校でも叱られるのが恐くて悪い事が出来ない類いの生徒だった。
反抗期らしい反抗期も無かったし、怒った顔を見るよりは微温湯に浸かろうともそこそこに笑顔を見る方がずっとましと思う。
まだ物語のように本格的に始まっても居ない、ホムンクルスやら賢者の石やらを巡る戦いに無闇に首を突っ込んで早死にするのもナンセンスだ。
平和が一番だ、なんて、保守的で何が悪い、と、
小さく良心の疼いたような気のするのを見ない振りして、自分の胸の内に毒づいた。
実際、何の力も無いただの一般人である私にできる事など何も無かったのだが。
数十年後にもし自分が生きていた時、平和惚けした国にのうのうと育った自分に、
見た事のない悲惨な戦争の現状が私に耐えられるのかなんて不安は、まだ考えたくも無かった。
それでもアルファベットの踊る新聞には、元の世界とそう変わらず、確かに此の空の下の何処かで今日も人が死んでいた。
私の置かれている状況をようやく知ったその日から、
仕事場近くの雑貨店で購入した黒い革の手帳に、日本語で、日記をつける事にした。
日記と云っても、有り触れた日常を書き綴るのでは無く、なるべく主観を抑えた現状記録のようなものだった。
私がどんな国、世界から来た何者であり、今どう云う状況にあるかを簡潔に、けれど詳しく書き記した。
元の世界を忘れない為の、忘備録に近かった。
此の世界に生きて行く決意は頼り無いながらも一応はある。
けれど、忘れたく無いものを忘れずにいたいと云う願望も、確かにあったのだ。
そうして私は日々を何とか生活し、時々世界の情勢を気にしつつ、生きて行った。
あの小さな村へも時折戻って、村人に近況報告したり、老婦人のお墓を訪れたりもした。
自分の送る日々に安定と平穏を見出せるようになると、
折角異世界にいるのだから此処でしか出来ない事をしてみようと考える余裕も生まれ始めた。
仕事が休みの日に、少し足を伸ばしてイーストシティにある大きな書店へ出向き、
数冊の本を買い揃え、独学ではあるがまずは勉強を始めることにした。
私が今住んでいる小さな街には、欲しい本はどの書店を探してもなかなかどうして見つける事が出来なかったので、
私は必要な本ができる度にイーストシティー、もしくは時折セントラルシティーにまでも出て行く必要があった。
人生は何事かを為すには余りに短いが、何事も為さぬには余りに長いとはよく云ったものだ。
私が始めた此の世界でしか出来ない事ー錬金術ーは、
一生掛けても私には出来ないのではないかと思える程に、当然乍ら、難解だった。
記憶にある限りの物語から得た知識から、おおまかな原理や法則、仕組みは何となく知っている。
しかしそれを実行出来るかと云うとまた別の話だ。
理解、分解、再構築とは簡単に云えるが、まず理解すると云う第一歩が一番の問題では無かろうか、と、私は頭を抱えた。
私は頭の出来はそんなに良くは無いのだよ、と、真新しい入門書に悪態をつきながら、取り敢えず知識を得る所から地道に始める事にした。
元の世界に帰れるかも分からない以上、死ぬ迄此の世界にいるものと仮定していれば、帰れないからと幻滅することもなかろう。
其処で私は、帰れないのなら帰れないで、何か大きな目標があれば充実した人生をおくれるのではないかと考えた。
なので、死ぬ迄に一度でいいので基本的な小さな練成を一つくらいは成功させる、と云う、
大きなと云う割には、随分と限り無く低い目標を立てた。
錬金術とはこちらに於いては魔法や夢物語ではなく、れっきとした高等な科学だ。
どちらかと云うと成績普通の文系な私にとって、
科学の天才とも云える錬金術師を目指す事に多大な無理があることを十分自覚した上での、駄目元の目標でもあった訳だった。
(08.9.16)
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