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何の前触れも無くもたらされた、世界を分かつ次元の歪曲はあっけなく私を飲み込んで吐き出した。
あまりにも有り触れた生活を、私はただ生きてきた。
日本と云う国に生まれ、家族がいて友達がいて、学校に通って、学び、成長し、
泣いたり笑ったり苦しんだり怒ったり喜んだり悩んだりしながら生きてきた。
それはあまりにも極々普通の事だ。
その一つの無常な歪みさえなければ私はいつか死ぬ其の時迄、
ただ有り触れた人生を送って行くはずだったのだ。
しかし、「普通」は呆気無く牙を向く。
友人の家に向かう為に、私はいつものように最寄り駅へと歩いていた。
其の道すがら、突然酷い頭痛と目眩、耳鳴りに襲われて意識を失った。
「異常」に飲み込まれた自覚もまだ得られぬままにそんな歪みから吐き出された私を取りまいていたのは、
最早すでに私が現実としていた世界とは似て非なる、異世界だった。
眼が覚めた時、私が最初に見たのは古びた天井の木目だった。
天井の中央からは無造作にやや埃を被った裸電球が垂れ下がっていた。
ぼうっとする頭が徐々に覚醒に向かうにつれて、ますます現状が理解出来なかった。
確か私は駅近くの街中で倒れたはずだった。
普通なら目覚めた時に見えるのは恐らく病院の天井か自宅の天井であるはずだろう。
しかし、眼を開いて見上げた天井も今横たわっているベッドも、
何処か決定的な違和感があるような気がして胸に靄と共に引っ掛かる。
まだぐらぐらとだるさの拭えない頭と身体に鞭打つように見回したその部屋は、
どうみても病院でも自宅でも何処か知っている部屋でも無かったし、
山小屋を思わせるような簡素な木造の建物は現代の日本にひどく不似合いな空気を保有しているような気がした。
近所にこんな建物が果たして存在したろうか?
私が目覚めたベッドはやや色褪せた青い厚手のカーテンに覆われた窓の横にあった。
ふと心臓を衝く不穏な予感に駆られて、震える手でカーテンに触れる。
怖れからくる悪寒に数秒の逡巡。
それでも私はそのカーテンを開かねばならないような気がして胃の不快感を押し退けるように思いきって手を動かした。
そうして窓の外に広がったのは、泣きそうな程美しい自然に囲まれた、見た事も無い集落の風景だった。
遠くに数人の村人らしき姿が見えた。
山と、村を貫く小川、橋、青々と葉の揺れる畑、どこからか響いてくる無邪気な子供の声。
そのどれもが、悲しいかな、少なくとも此処が日本では無い事を示しているのだと私は不思議と本能で理解していた。
あまりにも平和なその景色が、どれだけ私にとって異常であったことか。
有り触れた其の景色の中に生きる人々にとって、私がどれ程異常であったことか。
愕然として、どうしていいかわからないまま混乱する頭を抱えて見知らぬベッドに踞っていると、部屋の扉の開く音がした。
扉を開いた人物を見ようと顔をあげる前に、その人物が発した言葉に固まった。
動きを止めた私を不思議に思ったのかも知れない、
再びその人物が何か言葉を発したのを聞いて、私は顔を上げざるをえなかった。
恐る恐る、その人物を見上げると、穏やかな深いブルーの眼に心配そうな色を浮かべ、
私に微笑みかける初老の婦人が其処にいた。
恐らくは英語だろう、普段聞き慣れない異国の言葉を掛け乍ら私に優しく微笑みかけてくれる婦人に、
私は子供のように首をただ振るばかりで、彼女が困ったような顔をしているのを申し訳なく思い乍らも、
何故かどうしようもなく溢れ出る涙を止めることができなかった。
それは多分、理性より先に全ての現実を理解してしまった私の本能が流した涙だった。
静かに微笑む老婦人の暖かく小さな手が背中を撫でて慰めてくれるのも手伝ってどうにか泣き止んだ後、
語学の不得手な私は片言の英語と身ぶり手ぶりでようやっと自分の状態を彼女に簡単に説明した。
曰く、あまり言葉がしゃべれない事、此処がどこだか分からない事など。
涙は止まったものの、頭の中を吹き荒れる混乱は未だ続いていて、もともと苦手な英語は哀れな程に文法もめちゃくちゃだった。
それでも根気強く私の意図を読み取ろうと、理解する努力を惜しまない彼女に、私はとにかくお礼を云わなければと強く感じて、
焦るように言葉をつっかえ乍ら、拙い発音でありがとうと何度も云った。
彼女は少し眼を丸くして、けれど首を横に振ってにっこりと微笑んでくれた。
その笑顔にどれだけ私が嬉しく思ったか、きっと彼女は知らなかっただろう。
そうして何とか拙くも話をした結果、此処が全くの異世界である事を、
私は本能だけで無く理性でも理解せざるをえなかった。
私は彼女の家に程近い村の外れに倒れていた所を彼女に発見され、保護されたようだった。
名前を問われ、私は咄嗟にと名乗った。
どこから来たのかとも問われたが、まさか異世界からと答える訳にも行かず、
ありがちな言い訳ではあるが自分の名前以外は覚えていないと答える事にした。
心優しい恩人に対して嘘を吐く罪悪感が喉を塞いだが、老婦人は私を慰めるように手を握ってくれた。
ぼんやりと、私は恵まれていると感じた。どのような作用を持って此の世界に振り落とされたのかはわからないが、
私を拾ってくれた最初の此の世界の住人がこの心優しい老婦人であった事も、
此の世界の言語が苦手であるとは言え全く理解出来ない異国語ではなく少しは見知った英語であった事も、
運がよかったとしか云えないように感じた。
私の記憶にある限りでは、此の国は日本に比べてそう治安の良いところでもなかったように思う。
眼の覚めた場所次第ではとんでもない事になりかねなかったのでは無いかと思いかけて、
今はそれについて考えるのは止めようと思考を遮断した。
彼女が優しく労るように頬笑みかけてくれる。
強かと云うには浅ましさの過ぎる自分の考え方が恥ずかしかった。
得体の知れない他人である私にこんなに手放しの甘い優しさを見せてくれる人に出会ったのは、
産まれて初めてかもしれなかった。
眼が覚めてからは体調も良く、ベッドから起き上がるのも問題は無かった。
気が付けば窓の外は真っ赤な雲をたなびかせ、金星が顔を覗かせる時刻。
食事を作る、と云うような言葉を何とか聞き取った私は、
手伝うと云う旨を彼女に示して慌てて台所があるらしい隣の部屋に付いて行った。
現代の日本の台所とは随分勝手が違うので私は余り役には立っていなかったが、彼女はにこりと笑って、
ゆっくりと私に聞き取り易いようにありがとうと云った。嬉しかったが、少し恥じ入った。
夕食を頂き乍ら、彼女は私の記憶が戻る迄の間、暫く此の家にいてもいいと申し出た。
強がっても、どちらにしろ此の世界に何の依り代も持たない私には、どうすることもできないのは自明だった。
私は感謝と謝罪を込めて、深く頭を垂れた。
それから、私は此の国で生きるようになった。
其の国名を、「アメストリス」と云った。
(08.9.16)
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