18
水面に浮かぶように、ふっと覚醒した。
身体はふわふわと温かいものに覆われていて、とても心地がいい。
微睡みの優しい感覚が私を穏やかに包み込んでいるようだった。
まだ眠り足りないような気がしたが、このまま眠ってはいられないような気がして、何とか瞼を抉じ開けた。
けれど、眩しくてなかなかちゃんと眼を開く事が出来ず顔を顰めて何度も瞬きをする。
ようやっとまともに見えるようになったので眼を凝らして見える景色を眺めやると、
何処か知らない部屋でベッドに寝かされているようだった。
少なくとも私の部屋ではない。
見る限り病院でも軍の施設でも無いようだったので、其の点においてだけはとりあえず安堵した。
身動きは出来ないまま、はたりはたりとゆっくり瞬きを繰り返しながら曖昧な記憶を探り、
段々どういう顛末でこんな事になっているのかを理解してくると、何だか嫌な予感がして少し顔を顰めた。
まさか此処、大佐の家だとかそんなお約束な展開じゃないだろうな。
部屋の扉がかすかに開いているのだろうか、隣の部屋で小さな雑音のような話し声が聞こえた。
じっと耳を澄ましていると、男性の声と女性の声が何事か言葉を交わしている。
ひそひそと小さな声だったので何を云っているのか迄は聞き取れなかったが、其の声音は戸惑うような色を含んでいたようだった。
多分、私の此の有様のせいなんだろう、と考えて、自嘲しようとしたが、上手く笑えなかった。
ふと、気配が近寄ってくるのを感じた。
「さん、気が付いたのね?…大丈夫?」
蝶番を軋ませて開かれた扉から、知った女性の声が私に呼び掛ける。
ホークアイ中尉だ。
まだ少し眠くて頭がはっきりとしないながらも、傍らに駆け寄って私を覗き込む中尉の顔を眼だけで見上げ、頷いた。
彼女は痛々しいものをみるように少し眉根を寄せ、大佐、と扉の向こうに声を掛けた。
(やっぱりいるのか…大佐…。)
嫌だな、と思うと、つい小さく舌打ちをしてしまった。
ああ、駄目だなぁ私ってば、舌打ちだなんて品の無いことを。いやはや、つい、ね。
「…目覚めて早々舌打ちとは、良い度胸じゃないか…。」
「…あ、れ、…聞こえて、ましたか…?」
憮然として私を見下ろす大佐を見上げ、戯けたつもりでそう言葉を発したが、
そのあまりに掠れた弱々しい声が本当に自分の声かと自分でも驚いた。
大佐は苦々しい表情でベッド脇に据えてある椅子に腰掛けた。其の後ろに中尉が立ち、心配そうに私を見ていた。
「…此処、は、何処です、か?
病院では、ないで、す、よね…。」
「私の家だ。」
「えー…」
うわぁ、来たよ、お約束が!
思わず半分引きながら厭そうな声が出てしまい、大佐に睨まれたのでえへへと笑って誤魔化した。
現場から一番近かったので仕方が無いだろうとか何とか云われたが聞こえない振りをした。
嗚呼、いや、別に貴方が悪い訳じゃないんだ。
ただちょっと展開がチープ過ぎて笑えないだけさ。
「すみません、お手数お掛けしました。ありがとうございました。」
本当云うと放っておいてくれれば良かったと思っていた。
でも助けられたのは事実だし心配をかけたらしいのも事実のようなので、素直に謝罪を感謝を伝える事にした。
まだ少し上手く体に力が入らなかったので、横たわったまま少し会釈した。
「…目撃者から大まかな事情は聞いた。犯人はすぐ捕まったよ。」
「あー…ありがとうございます、でも、…」
どう云っていいのか解らず、言葉を続けられなかった。
捕まった犯人が自供するしない以前に、被害者である私が無傷であるのに刺されたと被害届を出す訳にもいかないだろう。
私が関わるとその辺りが随分とややこしい事になるので厭なのだ。
「この件はこちらで上手く処理しておく。
私としても、君の事を上に説明するのは面倒だ。」
「それはありがたいですね。」
暗に私の事を口外しないから心配するなと云う大佐の素直じゃない云い方ににやりとした。
暫くはあまり街に出られないな、と考えて億劫な気持ちになる。
本当なら引っ越して私を知る人の居ない所へ雲隠れするのが一番いい方法なのはわかっていたが、今更イーストシティーを離れられる訳も無かった。
「仕事の途中で済まなかったな、中尉。」
「いいえ。それでは、私は司令部に戻らせて頂きます。…大佐、」
「ああ、わかっている。」
そう云えば、大佐は私服だが、ホークアイ中尉は軍服を着ている。
あの時、大佐が電話で司令部から車ごと彼女を呼び出したので、慌てて仕事中に駆けつけてくれたらしかった。
退出しようとする彼女に、ありがとうございましたと慌てて声を掛けると、
彼女は労るような優しい眼をして一つ頷き、扉を閉めた。
大佐は一つ溜め息を吐いた。
「君に貸し一つだな。」
「こないだ流した情報分でチャラです。」
「…」
不遜に笑って云った大佐に即座にそう切り返すと、ちょっと言葉に詰まったようだった。
あれからも幾度か情報を流していたので、云ってしまえばむしろ借りがあるのは彼の方である。
暫くお互い黙っていたが、大佐が窓の外を見ながらぽつりと呟いた。
「…あの時、脈を確かめた。…確かに一度途切れていた。
死なないとは聞いていたが、…。」
大佐は続きを口に出そうとして其処で止めた。其の表情は険しかった。
そんな顔をして欲しいだなんて誰も云っていないじゃないかと心の中で吐き捨てる。
「…あの時、云ったでしょう。死なないのは本当だけど、痛いものは痛いんだって。」
「…」
「無様な姿を見られるのは御免です。」
そろそろ意識もハッキリして来たので、身体は鉛のように重かったが、とりあえずなんとか上半身を起こした。
そこでふと違和感を感じて自分の身体を見下ろすと、
血塗れだった服は着替えさせられていて、黒い長袖のカットソーのようなものを着せられていた。
袖も長く、随分大きいので、多分大佐のものかもしれない。
…厭そうな顔したらさすがに大佐も傷つくだろうか、と随分失礼な事を考えていると、
横から憮然とした声で、着替えさせたのは中尉だ、と大佐が云った。
あ、いや、今ちょっと別の方を考えていたんですけどね、と云える筈もなく、はぁ、と曖昧に返事をしておいた。
まぁそれはどうでもいい。
服を小さくめくって腹の傷を確かめると、まだ少し傷痕が残っていたが、すっかり塞がっていた。
少し憂鬱な気分になって眉を顰めていると、隣で酷く深い溜め息が聞こえて来た。
「…君には慎みと云うものがないのかね…。」
「… やだぁー、見ないでくださいよぉ。」
呆れたように額に指を当て乍ら大佐がそんな事を云うので、服を直しながらわざとらしく恥じらってみた。
わざとそんな事を云っているのかと思ったが、其れはどうやら本心から出た言葉らしい。
そんなことマスタング大佐に云われる筋合いは無いなと少し心外に思った。まぁ、それもどうでもいいことだ。
「とにかく、本当にお手数お掛けしてすみませんでした。
もう大丈夫ですので、」
そう云いながらよろよろとベッドを抜け出して立ち上がろうとしたが、
少し血を流し過ぎたせいか途端に頭から血の気がざぁっと引いて視界が真っ白になり、身体が重力に抗えずにぐらりと傾いた。
あ、倒れるな、と妙に冷静に考える間も無く、温かく大きな手が私の腕と肩を掴んで支え、ぐいとベッドに押し戻した。
そのまま仰向けにベッドに倒れて幾らか瞬きをしていると白に塗り潰された視界がちかちかしながら次第に視力を取り戻して行く。
上を見上げれば、呆れたような少し険しい表情でマスタング大佐が私を覗き込んでいる。
「いくら君でもあれだけ出血すればそうなって当然だ。
全く、もう少し大人しく寝ていたまえ。」
「重ね重ね申し訳ありません…。」
「それに、」
云いながら、大佐は再び椅子に腰掛けて、膝の上に肘を立て、口元で指を組んだ。
ゆったりと余裕を見せる動作と共ににやりと不適に笑うと、勿体振るように言葉を続ける。
「君の本当の目的とやらを、話してくれるのだろう?
私の眼を見て、な。」
その表情も振る舞いも、実にロイ・マスタングらしい様子だった。
そんな真直ぐな眼で問われれば、私にはもう隠すことも沈黙することも許されない気がした。
其の眼に救われるような気もするし、腹立たしくも思う。
結局の所私はずっと溜め込んで来た秘密を暴いてもらう事で彼に依存しようとしているのかもしれない。
そして彼が私の思惑に敢えて乗ろうとするので、余計に私がつけあがる羽目になるのだから始末に負えない。
私は甘やかされたかった訳ではないのに。
もっと私を罵ればいい。
責めて詰って私を殺せばいいのだ。あの美しい地獄の業火をもって。
「……大佐さんが云うと、何だかいかがわしく聞こえるのは私だけでしょうか…?」
「…どういう意味かな、それは…」
やや頬を引き攣らせながらも、一つ咳払いをして逸れた話を戻そうとする。
あまり其の話をするのに気乗りしない私がわざとふざけてみせた事等、多分お見通しだったのかもしれない。
一応は悪ふざけにも付き合ってくれてはいるが、はぐらかす事は許さないと暗に云われているようだった。
私は少し困ったように苦笑した。
目的とは、私にとってはとても重要な事であるけれど、こんなふうに他人に話して聞かせるようなたいそれた事ではない。
ちゃんと生きてちゃんと死ぬ、だいすきな人たちを守りたい。
そんな、本来ならごく当たり前の事でしかないのだ。
「当たり前」を失ってしまったから、もう一度「当たり前」が欲しいだけ。
「…目的だなんて大層な云い方をしてみましたが、
わざわざ貴方がこんなふうに聞き出さなくてはいけないような、
たいしたことではありませんよ。個人的なはなしです。
大佐さんの利害につながることではありません。」
やんわりと遠回しに拒絶したが、大佐はいつものにっこりとした上手な作り笑いをしてみせた。
「ああ、気にしなくてもいいさ。
これは尋問ではないのだからね。ただの世間話だろう?
よかったら是非君のことを聞かせてくれないかな。」
「えー…云いたくなくなりましたぁ。」
「…扱いにくい子だな、君…。」
はは、と渇いた笑いをひとつ零して、私は大佐の眼を真直ぐに見上げた。
不敵に微笑んではいるが、眼はあまり笑っていないように見えた。いつものように、底の見えない夜の海。
「…大佐さんは、海を見た事がありますか?」
「うん?」
唐突に話題が変わった事に、大佐は少し首を傾げた。
しかし、すぐに気を取り直したように首を横に振った。
「…私も、こちらに来てからは、一度も海を見ていません。
内陸国な上、こうも情勢が不安定では、他国を旅行する事もままなりませんね。」
最も、私の場合は戸籍が無いので入国許可証などの公式手続きが取れないせいもあるのですけど、と続けると、
大佐に少し苦笑される。不法入国してまで海を見に行きたい訳ではないのだ。
「確か、君の祖国は島国だったと云っていたね。」
「はい。北の海では、流氷が流れて来たり、
南の離島の方の海は、泣きたくなる程綺麗なエメラルドブルーで、
珊瑚礁が一帯に広がっていて、鮮やかな色の魚が泳いでいるんです。」
「素敵だね。」
「はい。でも、戻れない。」
「…。」
「…本当云うと、私はもう元の世界に帰る事を諦めているのです。」
大佐は黙って私の言葉を聞き、先を促す。
此の人は聞くのが上手いから、何だかいつもずるずると言葉を引き出されてしまうようだ。
「どうやってこちらに来たのかも解らないし、どうやって帰れば良いのか見当もつかない。
…私、此の世界が好きです。
元の世界も私にはとても大切ですが、今私がいる此の世界が、今の私の現実です。
だから、私は此の世界で生きて行く。
…此の世界で生きて、死にたい。
だいすきなひとたちと一緒に。」
「…それが、君の『本当の目的』、か…?」
「はい。…だから、たいしたことないって、云ったじゃないですか。」
私は力なく笑った。言い渋った癖にたったそれだけの事かと思われているかもしれない。
大佐は相変わらず何を考えているのか解らない表情をしていたが、
何となく其の眼を見続ける事に疲れて少し眼を閉じた。
瞼の裏に、いつか見た祖国の海がたゆたっている。
「…しかし、それは先日の答えにはなっていないのではないかね?」
ふと、少し不満そうな顔をして問われ、私は苦笑した。
「リークの件、まだ怒っていらっしゃるんですか?」
「…怒っている訳ではない。」
「使えるものは使っておくべきですよ。私であれ何であれ。
私の調べもののついででもありましたし。」
「調べものとは?」
「死ぬ方法です。」
うっすらとぼやけて思い出せない記憶の靄の向こうで、覚えていること。
「物語」の主人公達の求める其れは、覚えている。
其れに関する情報は酷く曖昧で思い出せないけれど、解らないなら私も其れを調べ求める迄だ。
「…賢者の石、って、知ってます?」
軽く眼を見開く大佐に、私は自然と微笑んでいた。
(08.9.16)
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