<Attention!>

刃物や流血等、痛い表現があります。苦手な方はお気をつけ下さいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

17

 

 

 

 

 

運が悪かったんだ。

自ら危険に飛び込んで行ったせいではない。

茫洋とする意識を痛みで叱咤して何とか保たせながら、そんな言い訳じみた事を考えていた。

 

 

 

 

少しずつ暖かい陽差しの照る日が増えて来たかと思った矢先の三月中旬のその日、

唐突に真冬に逆戻りしたかのような寒波が東部を一晩で覆い尽くした。

あんなに春めいた日々が嘘のように空も街も灰色の雪曇りに包み込まれ、

季節外れの雪は滔々と降り、やがて建物や街路樹にうっすらと白くヴェールを掛けた。

突然の冬日に人々は戸惑い、暖かい家の中で春が目覚めるのを待っている。

街はしんと静まり返っていた。

 

どうしても用事があって外出した私は、さっさとやるべき事を済ませて帰路を急いでいた。

そうして人気の少ない路地の側を差し掛かった時、何と何故こんな日に、と舌打ちをしたくなる災難が飛び込んで来た。

 

突然薄暗い路地からぬっと突き出された何者かの腕によって路地に引きずり込まれ、

首を締め上げるように拘束され、頬に何か尖ったものを突きつけられた。

頭の上方から少し震えて耳障りなざらついた男の声が、私に金を出せと要求する。

頬に突きつけられているのはダガーナイフのようだった。

 

薄暗い灰色の空を反射する鋭利な刃物に、怖いと思う気持ちはあったが、

何処かで、馬鹿だな、刃物なんかじゃわたしはしなないのに、と冷静に状況を客観視する自分がいた。

 

一応私も危ない橋を渡って来た人間だ、護身術程度なら身に付けている。

内心少し冷や汗をかきながらも、男の脚を蹴り払い、何とか首を拘束する腕を振り払った。

 

ところが、其処で誤算が生じる。

 

腕を振り払ったはいいが、動揺した男がとっさに私を逃がすまいと焦って突っ込んで来た其の弾みで、

男の手にしていたダガーナイフが私の腹に吸い込まれるようにして呆気無く突き刺さった。

私が驚いたのはもちろん、男の方もまさか本当に私を刺し殺すつもりはなかったようで、

突然の誤算に黒い口布とサングラスで隠された顔の向こうに怯えのようなものがちらついたのが見えた。

 

何度も云うようだが、いくら私でも刺されれば痛いし、血も出るし、そうなると一度死ぬのだ。

一度死に、其の上でまた目覚めると云うプロセスを指して「死なない」と私は表現している。

よって、正確に云えば、死なないのではなく死んでも生き返ると云った方が正しいのだ。

 

(あ、これは、また死ぬな…。)

 

頭の中は妙に冷静に、差し込まれた冷たいダガーナイフの温んで行く感触と、

痛みとともに腹部にじわりと広がる生暖かい自分の血を感じていた。

男は言葉にならない声で喚き声を上げ、躓きながら狂人のような有様で逃げ出して行った。

溢れ出す血と痛みのせいで追いかける事も出来ず、

私はその場に倒れ込むように冷たい石畳に跪き、男の後ろ姿を忌々しく眺めやった。

刺すだけ刺して逃げんな、と毒吐いてみた所で、どうにもならない。

ナイフを早く抜きたいが、此処で抜いたら、此処でそのまま出血多量で倒れなければならなくなる。

さすがに此処からでは家は遠過ぎるので、人目に着く前に出来れば犯行に使っていたあの隠れ家か、せめてもう少し目立たない所に移動してからにしたかった。

痛みと目眩と冷や汗を我慢してとりあえず何とか立ち上がり掛けた所で、横手の方から女性の悲鳴が上がる。

 

(しまった。見つかると厄介だ。)

 

偶然通りかかった女性にしっかりと刺された傷口を見られた。

可哀想に、女性は口元に手を当てて蒼白の顔をして震えている。

そして、その一瞬後に弾かれたように大声を上げて人を呼び始めた。

 

刺される前なら憲兵を呼んでもらって強盗を捕まえてもらえばよかったのだが、

今の状態で憲兵に見つかって病院に運ばれでもしたら、人前で生き返る姿を晒すことになってしまう。

 

どうしても、どうしてもそうなるわけにはいかなかった。

 

殆ど気力だけで無理矢理立ち上がり、ぽたぽたとナイフの柄を伝って滴り始めた血にも構わず、

私は必死で路地裏に身を隠しながらよろよろとその場を逃げ出した。

何処をどう逃げているのか既に解らなくなっていたが、とりあえず誰も追いかけて来てはいないようだったので、

シャーベット状の雪がうっすらと残る暗く細い路地の隅で倒れ込み、踞った。

 

視界が霞んでゆく。腹部は焼けるように熱くて痛いのに、身体は痺れるように冷たくて云う事を聞かない。

それでも動かない手を無理矢理叱咤して、腹から生えたナイフの柄を両手でそっと握る。

触れただけで腹部に猛烈な痛みが走ったが、痛みを振り切るように一気にナイフを引き抜いた。

堪えきれずに呻き声を上げながら、ナイフをそのまま手放し、

からからと虚しい金属音の反響が聞こえる中、温もりの溢れる傷口を必死で抑えた。

 

私は身体が震えるのを感じながら、ああ、死ぬんだな、と冷静に考えていた。

前にも一度ナイフで刺された事はあった。

 

(ナイフで刺されて死ぬのはこれで二度目ですよ、なんて、笑え、ない…)

 

あの人にそんな事を云ったら、きっとすごく険しい顔をして睨まれるんだろうな、と思った。

こんな時にあの人を思い出す事自体、ナンセンスにも程がある。

でも思い出さずにはいられなかった。

 

ああ、だって、あの時、あんな声で、私の名前を、、と、…

 

 

「…!!?」

 

聞こえる筈のない声が、聞こえた。

 

焦ったように走ってくる靴音が、石畳を伝って傷口に響いていちいち痛い。

何だってそんなに都合の良いタイミングであなたが此処に居るのだ、と、

身体の自由が利くのであれば胸倉の一つでも掴み掛かってやりたかった。

 

一瞬幻聴かと思ったが、霞んで殆ど見えない眼を凝らして見上げれば、

ぐったりと横たわる私を必死の形相で抱きかかえていたのは、確かにやはりマスタング大佐だった。

ああ、揺らすな、傷口に響くではないか。

 

どうやら今日は偶然近くに居ただけで非番だったらしく、私服姿であるらしい。

らしい、と云うのは、視界がどうにも霞んでよく見えず、

軍服のあの鮮やかな青が見えないことから推測しただけだからだ。

 

「どうした、何があった!」

 

返事をしようにもできぬまま咳き込めば、喉に口腔に唇に鉄の味が広がる。

唇から顎にかけて生暖かい液体が伝うのを感じた。

腹部を押さえている血塗れの手に気付いた大佐は、すぐに巻いていたオフホワイトのマフラーを止血帯代わりにぎゅっと結びつけ、

私は電流のように身体を走った痛みに、声にならない呻き声を上げた。

きっと上等なカシミアのマフラーはすぐに真っ赤に汚れてしまうだろう、

どうせすぐ塞がるのに汚してしまうのは勿体無いなと思った。

 

咄嗟に医者を、と口走った大佐の袖を震える手で必死で掴み、私はひたすら首を横に振る。

あんまり私が強く主張したので、其処で大佐もようやく私の意図する所に気付いたようだった。

しかし、私の事情の異常さ故に尚更どうすべきか判断をつけかねたらしく、焦りながらも彼は心底困惑した表情をしていた。

自分がどう行動するべきか、きっと頭の中で瞬時に状況整理をしているのだろう。

そんなもの、必要ないのに。

 

「……死な、ない、か、ら…。」

 

少し血を吐いたせいでうまく口が動かず、くぐもった声ではそれだけ云うのが精一杯だった。

ああ、本当の意味で死ぬみたいだな、と思う。

 

いつもそうなのだ。

死ぬ瞬間はいつも、此れで本当に最期になって、もう二度と目覚めないんじゃないかと思う。

そうすると少し怖くなった。でも安らかな気持ちにもなった。

暗闇の中で自分の意識が途切れ行くのを感じたと思うと、また次の瞬間、気付けば私はそれでも眼を開くのだ。

それを絶望と呼ばずして何と呼ぶべきか。

 

、とまた大佐が何度も私を呼ぶ声が頭上から振ってくる。

暖かい腕に支えられた背中がやけに暖かくて、眠くなる。

身体が強張り、段々自分の鼓動がゆっくりになり、

途 切   れ    て

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寒い 熱い 痛い 痛い

…痛い?   嗚呼、そうか…。

 

心臓がじわじわと暖かく脈打つ感覚を暗闇の中で自覚して、私は酷く恐ろしい気持ちで自分がまた生きている事をも自覚し、

咳き込み、初めて呼吸をする乳飲み子のようにひゅうひゅうと喘ぎながら、涙が滲む瞼を抉じ開けた。

意識がなくなる直前迄とそう変わらない様子だと思う。

私はぐったりと力なく大佐に抱きかかえられ、見上げると、驚愕した様子を隠せずに少し青ざめた顔をした大佐がいた。

無理もない、と、まだ力の入らない身体を疎ましく思いながらそう考えた。

 

死なない事を知っているなら、どうか私の事は見なかった振りをして放っておいて欲しかった。

こんな無様な姿を誰にも見られたくはなかった。こんな、こんな。

 

腹部に鈍い痛みが走り、それに気付いた瞬間思わず私は弾かれたように大佐の腕から逃れた。

弾みで石畳に肩を叩き付けたが、其れにも構わず私は傷口を抱えるようにして大佐に背を向けて踞る。

 

この痛みは、傷口が異常な早さで治り始めた合図だ。

もう此れ以上、こんな醜態を晒すのは耐えられない。

背後で大佐が私に向かって手を伸ばそうとしているのを、必死で拒絶した。

触れられるのは怖かった。

 

どうせあんたの手はこんな時だって、きっと、あんなに暖かいのだろう?

 

、どうしっ…」

 

「…見るなっ…!!」

 

あまりにも惨めな気分だった。

視線から逃れようと必死で隠すように傷を両腕で抱きしめながら、痛みで震えが止まらない。

悲しさか怒りか痛みか、由来の解らない涙が溢れて止まらなかった。

 

「お願いだから、わたしを見るな…!!」

 

くぐもった声は、音にしてみるとひどく悲痛なものに聞こえた。

濡れた石畳に何度も倒れ込んだせいで服も髪も濡れていた。

半分融けた雪が泥と混じり、其れはさらに私の血に汚れている。

白く神聖な雪を汚してしまった事が深く償いきれない罪であるかのように思えて、

祈る神もいない絶望に唇を噛む。

だって、ああ、神様は居るのと同じくらい、居ないのだ。

 

「…すぐに車を呼ぶ。此処で待っていなさい。」

 

大佐は自分の着ていた黒いコートを脱いで私を覆うように掛け、

来た時同様の焦りを帯びた靴音が足早に遠ざかって行くのを聞きながら、

私はもう繋ぎ止める気力も無いままに、静かに意識を手放した。

 

(馬鹿だな、こんな寒い日にコートも着ないんじゃ、あなたが寒かろうに。)

 

大佐が戻ってくる前に自力で逃げ出したかったが、目の前に降りた眠りの帳に抗うことはもうできそうにない。

身体を覆った温もりが、愛しくて、腹立たしくて、嬉しくて、哀しくて、また涙が流れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(08.9.16)

 

 

 

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