16

 

 

 

 

 

 

『どういうつもりだ。』

 

春待ちの風が吹き、冬が最期の息を引き取る間際の季節。

数週間振りに電話越しに聞いたその声の主は、相変わらずだった。

笑いたいような罵りたいような嗜虐心を堪えて飼い馴らし、努めて冷静に対応しようと思った。

 

「えー、マスタング大佐、ですよね?

どうもお久し振りです。」

 

『聞こえなかったかね、くん。あれはどういうつもりなのか、と云ったんだ。』

 

私の家を尋ねて来て以来、あれから私は一度も大佐と会うことは無かった。

取引で自由放免になったとは云え、犯罪を犯した人間がそう簡単に信用してもらえるとは考え難い。

しかし、少尉達と共に監視の者達が引き上げてから、動向を探られている様子も全く無かったし、

試しに裏の社会に顔を突っ込んで見ても其れを察知して警戒されるような事も無かった。

 

こうもあっさり軍にとって利用しやすいだろう人間を素直に手放すとは思わなかったので、暫く警戒していた私はやや拍子抜けした。

あまり知りたいとは思わなかったが、何だか大佐が何を考えているのかに気付いてしまいそうだったので、

私はあのお人好しの事はなるべく考えないようにした。

大層な野望を抱える割に変な所で詰めが甘くなる、そういう性質は嫌いではないけれど、

何だか私は居心地が悪いのでもっと酷く扱って欲しいだなんてマゾヒズムに似た事を考えてしまう。

 

カフェで中尉と話をしたあの日に決断した事を、私は貫くつもりだった。

時間が経てども其の意思はやはり変わらなかった。

だから私はもう迷わずすべき事をしていくつもりだった。

そのまず第一歩目としてした事に対するリアクションが、冒頭の電話に繋がった訳だった。

 

「突然、どういうつもりかと云われましても…。」

 

何の前触れも無く鳴った電話を何気なく取れば、交換手は澄ました声で東方司令部司令官からの電話だと云う。

まさか此の家に軍からの電話が寄越されるとは思っても見なかったので何事かと驚き慌てて繋いでくれと答えると、

回線が繋がった瞬間に、開口一番、名乗るより先に苛立った声でそう低く問われたのだった。

 

『とぼけるのもいい加減にしたまえ。

何だあの封書は。誰があんなことをしろと君に頼んだ。

取り引きはとっくに成立している。もう終わったんだ。

これ以上余計な事に首を突っ込むのは止めたまえ!』

 

おそらくは執務室から掛けているのだろう、部屋の外に聞こえないよう声を抑えてはいるが、

苛立った声はいつも余裕を見せる彼らしからぬ剣幕だった。

いや、ある意味、最も彼らしいとも云えるが。

其処でようやっと、私は彼が突然電話を寄越し、私に苛立った言葉を投げた理由に思い至った。

彼の云う封書とは、私が数日前にロイ・マスタング大佐宛に送った、テロ組織や逃亡中の犯罪者に関するリークだった。

 

「誰かに頼まれた訳ではありません。自分の意思でした事です。」

 

『まだ犯行を続けるつもりか。』

 

「あれはあれで終わりです。もうするつもりは一切ないです。私はただ情報を拾って渡しただけですよ。」

 

大佐は多分勘違いをしている。私がまた犯罪計画を練っていて、

その情報集めのついでに聞いた情報を流して来たと思ったのだろう。

しかし私は中尉にも云った通り犯罪は終わりにした。

必死に取り引きをして罪を問わずに済ませてもらったものをみすみす水泡に帰すつもりは無い。

今回渡した情報は、渡す為にわざわざ拾って来た情報だ。

彼らに有益な情報を渡す事に、まさか罪を問われまい。

 

『…それこそ余計なお世話だ。

反乱分子の制圧は我々軍の仕事だ。軍の情報網は君が思うよりずっと優秀なんでね。

わかっているのか?君はもうただの一般市民だ。

わざわざ危険な事に首を突っ込むと、痛い眼に遭うぞ。』

 

嗚呼、私はよっぽど笑い出したかった。この期に及んで貴方はそんな事を云う。

 

大佐はつまるところ、ただ私の身を案じてくれていたのだ。

其の為にわざわざ電話迄掛けて来て忠告してくれたのだった。

取り引きの成功を口実に監視の一切を排除して手放し、罪を清算して表の世界の人間に戻った私が、

下手に裏の情報を嗅ぎ回ったせいで余計な危険が及ぶ事を危惧しているのだ。

死なずの私を、ただの無力な女として扱い、危ない眼に遭いやしないかと心配して叱ってくれると云うのだ。

一体貴方は何処迄優しいことを云うつもりなのか。

 

「…少尉さんに頼んだ伝言、聞いてくださいましたか?」

 

『……誰がお人好しだ。』

 

「其の通りじゃないですか。貴方は本当にお人好しです。

ああ、そうだ、私の情報は役に立ちましたか?」

 

解っていてわざとそう尋ねた。

情報を流した翌日、軍は直ちに鮮やかな作戦をもって無血でテロ組織を鎮圧したと今朝の新聞が伝えている。

 

『…。』

 

「沈黙は肯定と認識します。

…大佐さんはあの時私の話を聞いてくださって、信じる努力はすると仰って下さいましたね。

其の上で、こんな私をただの一般市民だと云って、普通の人間のように扱って下さるんですね。

其れがお人好しでなくて何だって云うんです。

でもね、危険に首を突っ込まず、おとなしく、普通の生活をして、其れで私が幸せになるだなんて、

信じる努力はすると云ってくれた其の口で、そんな事を云うつもりですか。

普通の生活をして、何十年も際限の無い生き地獄を、幸せと思い込んでいろと仰るんですか。」

 

私の異常さを理解した上であくまでも私を普通の人間として扱ってくれる、

怪我をしても死にやしないのに身を案じてくれるその気持ちは、息も出来なくなりそうな程嬉しかった。

不器用だが得難い優しさだった。

 

しかしその優しさは、今は私にとってとても残酷だ。

危険を覚悟してでも前に進まなくてはどうにもならない。

 

「…すみません、わざわざ忠告をして下さっているのに、失礼な事を云いました。」

 

少し我に返って、云い過ぎたなとひどく苦々しい気持ちで謝罪の言葉を伝えた。

意思を確立してふっきれたからか、少し私は喋りすぎた。

 

『いや…こちらこそ、すまない…。』

 

「えっ!?」

 

『な、何だ?』

 

「いや、あの、まさか謝られるとは思ってもみなかったので…。」

 

『…君は一体私をなんだと思っているのかね?』

 

正直に驚いたら憮然とした不機嫌そうな声で厭味を云われた。

其れでこそ大佐だな、と思いつつ悟られないようににやにやする。

 

「…大佐さん。私には目的があるんです。

だから、目的の為にはもう迷わないと決めました。

多少痛い目を見たって、もう諦められないんです。」

 

『君の目的とは、死ぬことか。』

 

「それもあります。でも今回の事はまた別の方です。」

 

少し小さく微笑んで、電話越しの相手に見えないのをいいことに、情けなく壁に凭れてずるずると座り込んだ。

 

『君の本当の目的とは、一体何なんだ。』

 

「そんな私にとって大事な事を、電話なんかじゃ云えませんよ。」

 

『盗聴はされていないと思うが…。』

 

「そうじゃありません、マスタング大佐ともあろうお方が、無粋ですね。

大事な話は、相手の眼を見てするものです。

…それでは、またいつか。」

 

待て、と慌てて引き留めようとする声にも耳を貸さずに私は勢い良く受話器を置いた。

相手の眼を見て、とは云ったが、あの夜に広がる凪いだ海のような眼を見て、とても正気じゃいられないような気がした。

それは全てを闇に覆い隠して沈黙するくせに、悲しくなる程優しい海だ。

 

私は、何だか変に浮かれている、それでいて落ち込んでもいる。

矛盾した気持ちが犇めいてざわざわと血の流れに乗って身体を駆け巡っている。

私が思う以上に大佐が優しすぎたからきっとあてられてしまったのだろう。

優しさとは薬のようなものだ。用いる量を過てば毒にも成り得る。

甘い甘い毒が私を侵していくのを自覚すれば、尚更私は目的の為に進むより他は無いのだから。

 

座り込んだ其の姿勢の侭、固く冷たい床に横たわる。

その身体の痛さに、死んで行く時の感覚を思い出して少し身震いし、ぎゅっと手足を縮めて身体を丸めた。

 

私の目的は死ぬ事だ。でも、ただ朽ちる事だけを望んでいるのではない。

あの人が唆したりするものだから、私はもっと多くを求めてしまっているのだ。

 

だいすきなひとたちと、共に生きて、共に死にたい。

 

それはただ死ぬ事とは違う、強制的な断絶ではなく、人間としての生き方を全うする事だ。

生きて死ぬ事、人間が人間として存在した時から与えられた其の普遍的で奇跡的な法則が、私は欲しい。

 

例え普通の人間に戻れなくても、死ぬ方法さえ解れば、「共に死ぬ事」は出来よう。

ずっと誰とも関わらないように生きて来た。私を知らない人の中に居る事で安堵してきた。

残される悲しさを思い知らされたくなくて、私はだいすきなひとたちと関わる事を拒絶してきたのだ。

 

けれどそれでも何の因果か私は出会い、縁が結ばれた。

繋がりは暖かく胸に根付き、そうしてようやっと、其れを否定しないだけの覚悟を決めた。

そうなった今、私には、「共に生きる事」が出来るのだ。

 

私はもう傍観者に戻る事はできない。彼らを助けたいし、自分に出来る事ならしたいと思う。

一度繋がった縁を見ない振りをしないで、ちゃんと関わる覚悟ができたのだから。

 

(死ぬならきみの為に死にたいだなんて云ってみせたら、あの人はどんな顔をするつもりなのかしら。

馬鹿な事をと怒られたとしても、わたしの死が彼の為になるのならどんなにか素敵だろうとよく考えるのです。)

 

横たわりながらとぎれとぎれに口ずさんだ歌は、今ではあまりに懐かしい、祖国の歌だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(08.9.16)

 

 

 

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