15
10日以上もの間、ずっとまともに外に出ていなかったせいもあって、
監視が解けた翌日、早速外出してみれば、何だかやけに外の世界が眩しく見えた。
相変わらず灰色の雪雲が空をうっすらと覆っていて、輝く陽光はまだ当分望めそうもない。
特に何か用事があった訳ではなかったが、何となく家を出て来てしまったので、まずは日用品を買いに行く事にした。
食料は昨日少尉が持って来てくれた物があるのでまだ構わないだろう。
時間はちょうど昼頃、ふらふらと寒さに縮こまって歩いてようやく街中まで辿り着いた。
昼と云えどこの季節だ、そう気温も上がらない。
街の外れにある家から歩くと此処迄は結構な距離になる訳で、長時間外を歩いたせいでコートを着ていても身体はすっかり冷えきっていた。
何重にも巻いたマフラーに口元を埋める。冷たくなった鼻先が痛い。手袋の中の指が凍るように熱を忘れて行く。
少し俯き気味のまま早足で石畳の道を歩いていると、ふと見上げた視線の先に小さなカフェがあった。
店先には緑のパラソルを畳んだオープンテラスの席が取り残されたまま凍えている。
暖かくなったらきっとあの席も人で賑わうのだろう。
そんな事を考えながら、急ぎ足でカフェの戸を開いて滑り込んだ。
とろりとした暖かい空気に、一瞬呼吸に戸惑う。
いらっしゃいませ、と店主らしき中年の女性の声が聞こえたので軽く会釈を返し、カウンターでホットチョコレィトをオーダーした。
湯気の立つカップを載せたトレーを受け取り、
寒さに強張った手が落としてしまわないように慎重に歩いて空いた席を探していると、不意に名を呼ばれた。
「、さん?」
壁際のテーブル席に座っていたのは、何の偶然か、ホークアイ中尉だった。
軍服を着たままである所を見ると、昼の休憩中だろうか。手元には栞を挿んだ文庫本があった。
「…ホークアイ中尉?
わ、えと、こんにちは。」
「こんにちは。」
考えても見なかった人と出会ってどうすべきか逡巡していると、中尉は自分の荷物を避けて向いの席を勧めてくれた。
断る理由も無いので、お言葉に甘えて勧められた席に礼を云って座った。
私は彼女を含めた司令部の面々は一方的に知ってはいるが、そこそこ話をしたことがあるのはマスタング大佐とハボック少尉だけだった。
なので、彼女の凛とした空気に触れると尚更何を話せばいいのかわからず、
つい黙り込んでしまう。もともと私はお世辞にも社交的な性格とは云えない。
「いい香りね。」
私の手が温もりを求めて包みこんでいたカップを見て、中尉は少し微笑んでそう云った。
「…ホットチョコレィトです。コーヒーは、ちょっと苦手で。」
もういい大人なんですけどねぇと苦笑して呟きながら、
コーヒーをメインメニューとするカフェで云う台詞じゃ無いな、と少し思った。
「…あの、どうも、お久し振りです。
先日は、御迷惑をお掛けしてすみませんでした。
ありがとうございました。」
云う順序が逆になってしまったが、どうしても云っておきたかったのでそう云うと、
中尉は一瞬きょとんとした表情をしていたがすぐにいいえ、と云って微笑んでくれた。
「外出するのは久し振りなんじゃないかしら?」
「あ、はい。お陰で、外がなんだか眩しくて。眼がしぱしぱします。
中尉さんは、今、お昼の休憩ですか?」
「えぇ、此処一週間ほぼずっと司令部に缶詰めだったの。久々に外で、と思って。」
「…すみません。」
「それが仕事だもの、気にしなくていいのよ。」
少し苦笑してそう云ってくれたが、何となく自分のせいだろうなぁと思うとどうしても申し訳ない気持ちになる。
彼女が仕事に誇りを持っていることはよくわかったので、
そんな考えは失礼だろうとは分かっていたけれど、心の中でもう一度だけ小さく謝った。
そこでふいに、彼女の美しい真直ぐな眼が私を貫いたので、一瞬動けなくなった。
「…さんは、これからどうするつもりなの?」
「わたし、は、…これから…これから……。
…わかりません。」
すぐに自分の頭の中をひっくり返して答になるものを探したが、結局出て来なくて正直にそう云った。
これから、私はどうしようか。でも、答は私の中で、既に決まっているような気がした。
「盗んだりとか、ああいうことはもうするつもりはないです。
…私は、多分、もうずっと、欲しいものが、あるんです。
其れはお金とか、そういうもので得られるものでは無いくて、
其れどころか、得られるかどうかもわからないものなんですけど…。
…多分、これからも、生きて、それを、探すんだと思います。
そうするしか、ないので…。
…わたしには、神様は、いるのと同じくらい、いないから。」
黙って私の辿々しく要領を得ない話を真摯に聞いてくれる中尉のその態度がとても有り難かった。
迷った時は、きっと自分の中で既に答が決まっているものだ。選ぶに迷う言葉もまた。
可能性など、そんな曖昧な言葉、きっと昔は信じていなかった。
でも今はそんな小さな一片に縋る事しか出来ない。
途方も無く、際限の無い生はあまりに残酷で、それでも、私にも優しい死が訪れる僅かな可能性を捨てる事ができなかった。
「…大丈夫よ。」
少し寂しそうに笑って、中尉は私の手に触れた。
私は何時の間にか自分で自分の手をきつく握りしめていた。
其の指はやはり冷えきっていて、爪の食い込む掌は割れそうだった。
其の手に触れた中尉の手は柔らかくて暖かかった。
その温もりを感じた時、私の頭にふいに大佐の手の感触が過る。
ああ、もう、あの人の事は今思い出す必要なんか何処にも無いんだ。
「はい、大丈夫です。私は頑張れます。」
中尉の優しさがうれしくてくすぐったくて、私は戯けてそう云ってみせた。
猫舌な私にもようやっと飲める温度になったホットチョコレィトを口に含んだ。
とろりと熱く甘く、私の身体の中でずっとわだかまっていた塊が静かに融けて行くような心地だった。
「そう云えば、お仕事の方は大丈夫だったかしら?
随分休ませてしまったようだけど。」
「あ、はい。今朝連絡したら、明日からでも戻って来ていいよって云って下さって。
本当に、親切な方なんです。私みたいに身元のはっきりしないのを何も聞かずに雇って下さって。」
大概仕事を探す時に困るのは、私にははっきりした身分証名が出来ない事だった。
記憶喪失と云う事で押し通してこれまでもやって来ているし、戸籍は無いが、
今では一応借家とは云え住所も電話番号もはっきりしているので、雇ってもらえる所も少し増えたけれども。
他の場所はどうだか知らないが、イーストシティーには其の辺りをあまり気にしないおおらかな人間が多いように思う。
日本ならもっと苦労しただろう。
「私は、すごく人に恵まれています。」
そう云って笑うと、中尉も笑った。仕事中は美しく張り詰めた糸のように背筋を伸ばして鋭く先を見据える彼女が、
こうして穏やかに笑って話をしてくれるのは、何だか無性に嬉しくなる。
「…でも、だからこそ、何だかこわいです。」
「…どうして?」
少し中尉の眼の色が揺らいだ気がした。
其処で、私は気付いた。
少し其れを尋ねるのは躊躇われたが、でも、訊かずにいられなかった。
「中尉さんは、私の事、本当は御存じなのではないですか?」
そう云うと、彼女は少しだけ視線を強めて私の出方を窺っているように見えた。
どう答えるべきかを模索していた。
其れは無言の肯定でもあったが、恐らくは大佐に口止めされているのだろう。
聞かない方がよかったか、と思って慌てて訂正した。命令違反を強要する訳にはいかない。
「あ、いえ、あの、いいんです、何も云わなくていいです、ごめんなさい。」
中尉は諦めたように息を吐いて、困ったように微笑んだ。
「いいのよ、隠しても仕方が無いわ。
そうね…大佐から話は大方聞いたわ。それに、貴方の事を調べたのは、私だから。」
「…すみません。…あ、もしかして、あの写真を預かって来てくれたのは、」
「えぇ、私よ。」
どうりで私の身辺調査の報告書が、あんなにも整然と几帳面な文面で纏め上げられていた訳だ、と今更ながら納得した。
彼女らしい仕事だ。
そして私は、あの写真、あの小さな村で少女と一緒に撮った古い写真を思い出して胸がぎゅっとなる。
「ありがとう、ございました。」
頭を下げて、心から感謝した。息が詰まるような気持ちだった。
中尉はあそこ迄詳しく私の事をちゃんと調べ上げてくれた。
そして、私の存在の異常さに気付いた上で何も知らない振りをしていてくれた。
其れが例え仕事だからだとしても、何度ありがとうを云っても足りないように感じた。
「…彼女の、息子さんは、元気でしたか?」
おずおずと尋ねたのは、ずっと問いたかった事だった。
もうずっと、ずっと、あの村に帰っていない。
帰れなかった。
老婦人のお墓は荒れてしまっているだろうか、親友はちゃんと最期迄幸せだったろうか。
彼女の子供達はどうだろう、まだ、あの村は昔のように穏やかで美しいだろうか。
「ええ。貴方に会いたいと云って、笑っていらっしゃったわ。」
「…もう、もう、其の言葉だけで、十分です。」
ああ、でも、いつか、もう一度あの村へ帰りたい。
そして、ちゃんと婦人や親友の墓前で、お礼を云いたいと思った。
「…私はあの村に落とされた時から、もうずっと人に恵まれています。
どうしようもない私を拾ってくれた彼女も、親友も、村の人皆、
それに、今迄私を雇ってくれた人達、そして、「共犯者」も…。
あの人に教えてもらったのは、あんまり褒められた事じゃ無いことばかりでしたけどね。
でも、今なら、あの人が私に何も云わずに姿を消した理由が、分かるような気がします。」
唇に残るチョコレィトの甘ったるさが、私の舌を柔らかくする。
「共犯者」の事については詳しい事を誰にも云うつもりは無いが、優しい甘さと暖かさがそんな事を口走らせた。
「こうして中尉さんや、大佐さんや少尉さんにも、良くして頂きました。
…嬉しいんです、嬉しいんですけど、でも、私は恵まれ過ぎている。
それが、こわいんです。」
被害者ぶる気は毛頭無い。
だが、実際、だいすきな人達がどんどん居なくなって行くのを見ている事しか出来ない。
ずっと、私が皆から置き去りにされていたのだと思っていた。でも、違う、そうじゃなかったんだ。
…遠くに来てしまったのは、わたしの方だったなんて。
途方も無い時間が目の前に横たわり、どんなに終わりを望んでも道は途切れる気配も無く、立ち止まる事は許されない。
周りにあった道を一緒に歩いていたはずの者達は何時の間にか旅を終えて皆眠る。
最初からずっと1人であればそれが悲しい事だとも気付かなかった。
でも私はいつも誰かに優しくしてもらっていて、誰かが私に笑いかける。
そしてまた何時の間にかその人も眠りについて、気付けばまた誰かが笑うのだ。
そんなに優しい顔で、そんなに甘い好意で。
心が千切れそうな程愛しい。身を灼かれそうな程こわい。
あちらの世界だろうとこちらの世界だろうと、人は相変わらず愚かな過ちを繰り返すばかりで、
歴史は殺戮を辿るのに、どうして世界は、こんなにも、うつくしいのだろう。
「さ…」
「変な話をしてごめんなさい。何でも無いんです。」
彼女にこれ以上優しくされると私は駄目になってしまうような気がして、わざと言葉を遮って誤魔化した。
無理矢理な終わらせ方ではあったが、中尉は其れ以上は何も云わず、少し寂しそうに笑ってみせてくれた。
「…そろそろ、行くわね。早く戻って大佐を見張っておかないと、また残業になっちゃうの。」
「あ、すみません、休憩中なのにお邪魔してしまって…」
「いいのよ。貴方と話ができてよかったわ。
何か困った事があったら遠慮なく連絡するのよ?」
少尉さんも同じ事を云ってくれましたよ、と少しくすぐったくて笑って答えると、
綺麗な笑顔を残して中尉はカフェの扉を潜って行った。
白灰色の冷たい空気の中を、背筋を伸ばし凛として歩く青い軍服のその後ろ姿は、
まだ来ない春の名を呼んでいるように思えた。
誰も居なくなった席を少し見遣り、いくらも減っていないホットチョコレィトを飲む。
緩やかなジャズがささやかに流れる店内には、昼時だと云うのに客は数人しか居ない。
この寒さだ、外に出るのも億劫なのだろう。客足が遠のくのも無理は無い。
目の前にいた人が1人いなくなっただけで、世界が静まり返ってしまったような寂しさを感じる。
寂しさなんて感情は、誰かに関わらなければ感じないもののはずだった。
あの夜、最後の犯行で起きたイレギュラーな出来事は私の歯車を次々と狂わせて、
気が付けばいつのまにかこんなにも遠い所へ来てしまった。
関わるつもりが無かった人達。一方的に知っているだけだけれど、大好きだった「物語」の登場人物達。
繋がりを持たなければ他人でいられたものを、一度縁が繋がれば、もう、見ない振りをすることなど、できそうになかった。
(ああっ、全く、其れも此れも全部、ロイ・マスタング、お前のせいだ!)
彼は私に、契約通り、自由を与えた。
監視の中に囲われて家に縛り付けられているのは息苦しくて不安だった。
でも、こうして突然監視を解かれて、お前は自由だ、と云って、広すぎる世界に放り出された今、
自分の周囲に広がる何の枷も無いだだっ広い光景が不安で仕方が無い。
手を伸ばせども空を切るばかりの、あまりの寄る辺なさに身体が竦む。
その不安定さを自由と呼ぶならば、今、きっと私は不自由を選ぼうとしているのだろう。
不自由の中に見い出す小さな囲いの中の自由は、際限の無い生への恐怖を拭い去るものになるかもしれない。
(そう、全部貴方のせいなんだ。私に禁断の果実を与えて唆したのは、貴方なんだ。)
誘惑に溺れて齧る果実の、何と甘美である事か。
なるべく人と関わらないように生きて来た。
いつか死が訪れるよう祈り、生きるしか無かったから、生きて来た。
自由しか無かったから、何処へ行けばいいかもわからず、何も無い世界を彷徨って来た。
でも、知らない振りをする事など、もう出来ない。
拘束される幸せ。
不自由の恍惚。
永劫の地獄にも似た自由と云う名の残酷な楽園など、くそくらえだ。
私は鞄の中を探り、一冊の手帳を取り出した。
もう何冊目になるかわからない、しかし其れはデザインは違えど今もやはり黒革の表紙。
使い込まれた手帳を開くと、英語と日本語の入り混じる読み難い表記で、私の錬金術の研究が書き込まれている。
生体練成から人体練成に至る迄の資料、そして、賢者の石について。
私がほしいもの、途方も無い其れを手にする為に考えた末の答が、皮肉にもあの兄弟と同じものに行き着く事になるだなんて。
手帳を閉じた私は、眼を伏せて小さく笑った。
其の笑みが諦めか決意かは私自身にもまだ解らない。
温くなったホットチョコレィトを飲み干し、手早く支度をして店を出ると、コートの裾を翻して歩き出した。
いずれ冬が死んで春が生まれる。
あの兄弟が此の街を訪れる日は、少しずつではあるが、確実に、近付いている。
(08.9.16)
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