舞姫
腕に預けた頭をゆるりと擡げ、わたしは静かに眼を開いた。
闇の中にあれど、此の白藍の眼はしかと目の前の世界の姿形を認識する事が出来る。
まったく、夜目が利くとは誠に便利なものだ、と鼻を鳴らして、もう何千回も皮肉を潜ませて吐き捨てた台詞を再び繰り返した。
不意に開いた眼の先には、けれどただ閉じる前と変わらぬ世界が開けているだけだった。
安堵するような、切ないような、かなしいような、奇妙な心のうねりを捩じ伏せるようにわたしは再び眼を閉じて眠りに就いた。
「なにか」がわたしを呼んでいる気がした。
それが何なのかはわからない。ただ、とても懐かしい声であったようにおもう。
されどどれ程に心を砕いて其の声の主を記憶の海に分け入って探そうとも、もう気の遠くなるようなその先に行ける道理は無かった。
記憶なぞ、振り落として時間の樹海を駆け抜けて来た。
地を蹴って駆ける脚も爪も、傷一つ無いのにとても痛むような気がして、痛みを痛みで掻き消すように駆け抜けて来た。
思い出してはいけない。
なぜなら、わたしはもう、「私」ではないのだから。
山の匂いが変じたのに気付き、わたしはゆるりと予感を孕む方角を見据えた。
来る。其の本能的な感覚を頼りに横たえていた身体を起こし、音も無く宵風のように森を駆けた。
(…ああ、人間か。)
心中何の感慨も無くそう呟き、するりと薄暗い夕暮れの直中に立ち止まる。
少し遠く、茂みの向こうにある二つの黒い人影をただ静かに見つめた。
光の届かなくなった木々の底にあれど、何処か眩しさを覚えて眼を少し眇めてみせる。
此の眼の色素が薄いせいだったとしても薄闇の中にあって到底眩しくなどはないはずなのにと苦く笑いを噛み殺す。
ただ、ふと気が向いただけだった。それだけだ。
わたしは気付けば音も無くするりと茂みを飛び越え、人影の前に身を翻すように躍り出た。
其れが小さく息を飲んだのを感じた。
そして、金属のようなものがかちりと鳴る音が聞こえたので、ふと視線を人影の手元に向ければ、
滑らかな白銀の光沢ゆらめく刃がわたしの心の臓に向けられていた。刀だ。
わたしは人間に出会ったのは、ほんとうに、久し振りの事だったので、
少しそわりと身がくすぐられるような心地になる。
珍しく気を良くしたわたしは、くつと笑って、歯をかちりと鳴らした。
ますます身を強張らせるように刀を握り警戒を強めた人影は、よくよく見ると、
其の後ろにいるもう一人の人間を庇うようにして立っていた。
後ろにいる人間はぐったりと木に寄り掛かり、ぴくりとも動かない。
青い陣羽織にはどす黒い体液が滲み、辺りに錆びた鉄の香りを漂わせている。
(手負いか…。)
こんな時刻にこんな森の中を、灯火の一つも無く彷徨っているのだ、
大方そんなところかとひとり納得し、ぎっとこちらを睨めつけるその人間に向って構わず一歩、音も無く近付いた。
「…血の匂いを嗅ぎ付けて来たか。
神の遣いとも云われるお前を、無闇に傷つけるのは気が進まんが、
しかし、それでも、俺は此処でお前に喰われてやる訳にはいかねぇ。
…悪く思うなよ。」
ゆらりと刀を構え直したその男は、わたしに言葉が通じるはずも無いと思いながらも、
自分に言い聞かせようとしているのにも似た、低く唸るような声でそう呟く。
言葉が通じるはずが無い。
そう、普通なら通じないのだ。
何故なら、わたしは、白き虎の姿をしているのだから。
また一歩鋭い爪を隠した前足を彼の方へと近付ければ、ざり、と男の草鞋が砂利を踏み締める音が聞こえてくる。
もう一歩近付けば、背後に庇うべき者を擁した男は、このわたしに牙を剥くのだろう。
張り詰めた糸のように鋭い殺気を張り巡らせ、男はじっとわたしをその鋭い双鉾で睨み据えていた。
ぎらぎらと光って見える其の眼は、白虎の姿をしたわたしよりも、よほど獣じみた逼迫感があった。
男の緊迫にも構わず更に一歩、わたしが進み出るのと同時に、男は間合いを詰め、
その煌めく刃が私に届く寸前、その刹那、向い来る殺意を避けようともせずに、静かに彼に声を掛けた。
『それは、死ぬのですか。』
切先のせまる首筋に、ふわりと剣圧に由来する風を感じる。わたしの柔らかな白い毛並みが揺れた。
今にも私の喉笛を切り裂かんと振るわれた白刃は、わたしを掻き斬る寸前で咄嗟に逸らされていた。
男は後ずさり、驚愕に眼を見開きながらも油断なくこちらを窺った。再び背後の者を庇う位置に立つ。
庇われた方は、相変わらず意識の戻らぬまま、ぐったりと顔を伏しているようだった。
「何が…」
何が起きたのか分からず混乱している男の様子に構わず、わたしはもう一度同じ問いを繰り返した。
『あなたの後ろにある、それは、死ぬのですか。』
突然のわたしの声に面くらい瞬いていた男は、はっと我に返るが如く、
きつと私を睨むのを思い出し、さも不快だと云わんばかりに眉を顰めてみせた。
威嚇するような声音でわたしに向って吠える。
「いくらお前が神使だとて、政宗様に向って、
それ、とは聞き捨てならねぇ。」
男の怒りに触れたのは、どうやら背後に庇う者を「それ」と呼んだ事であるらしい。
わたしが云う事では無いかも知れないが、この男、どうにも論点がずれている。
変わった人間に会うのは珍しいことだ。そう思えば、男の向ける敵意もかわいく、少し愉快な気分になれた。
『死ぬのですか。』
「俺が死なせねぇ!」
わたしの言葉と己の不安を振払うように、手にした刀で空を一振るいし、男が叫ぶ。
其の足元で枯れ草がはらり舞う。彼の感情に揺らぎは無く、だからこそ、わたしには其の男の覚悟が少し危うく見えた。
だが、そのきらりと光るような危うさも嫌いではなかった。
ゆらりと尾を揺らし、わたしは静かに静かに、二人の人間の周りを囲うようにゆっくり歩く。
『ならば、あなたは、死ぬのですか。』
わたしはゆるりと首を傾げ、風も無いのにしゃらりと靡く毛並みを遊ばせながら、また小さく問い掛けた。
他意は無い。
ただ、此の男もわたしよりはるかにはるかに短い寿命の上でいつかしぬのだろうか、
と思うと、少し残念な気持ちになったから、口をついて出た言葉だった。
しかし男はそうは捉えなかったらしく、憎悪とさえ見える程に鮮烈な焔を揺らめかせた眼でもって私を睨み据える。
「此の俺の命一つで主君を助けることができるなら、俺は死する事さえ躊躇わぬだろう。」
曲解だ、とわたしはちいさく苦笑した。
それでは、命と引き換えになら助けてやろうとでものたまう、低俗な妖の囁く甘言のようではないか。
わたしはこれでも神の眷属に連なる者だ、左様な卑しい契約を引き出そうとする程落ちぶれたつもりはない。
…ああ、そうか、そういえば、わたしは「そういう存在」だったのか。
あまりに長く在り続けたせいで、とうとう己の存在理由も忘れていたことに気付き、
されど、其の事に何の意味も見出せなくなっていた感情の磨耗を自覚して、少し寂しかった。
こんな身に、望んで成った訳では無い。もうほとんど思い出せないけれど、わたしは確かに嘗て人間であった。
人間としての「私」が死に、いつしか「わたし」は、選ぶ余地も無いままに白き虎となっていたのだ。
白虎となったわたしは途方も無い時間をただただ息を潜めて存在して来た。
人間だった頃の事は、もう殆ど覚えていない。
けれど、性別は、雌だったような気がする。
記憶を手繰るとも無く弄びながら、わたしは人型へと姿を変貌させることにした。
するりと天へ身体を反らすように二本脚で立ち上がる。
すると、輪郭を曖昧に溶かすように、瞬きの間に虎の形が人の形へと移行し、
白藍の眼も白い髪色もそのままの、人間の女の姿をしたわたしがそこにいた。
男はそのわたしの有り様をどう受け取るべきかを迷うように言葉を飲み込み、ただ刀の柄を握りしめていた。
人ならざるものを見るのは初めてのようであった。
「人間は、儚い生き物ですからね。」
のんびりとそう呟き、わたしはゆっくりと二人に歩み寄る。
「…近付くな、」
「少し血が出ただけで、すぐにしんでしまう。」
「…近寄るんじゃねぇ!」
「神の眷属にとっては、人間等とるにたらぬ路傍の石も同然です。」
来るなと吠え、男はとうとう再びわたしに切先を向けて睨み据えたが、構わずゆっくりとした足取りで彼等へと歩み寄る。
「でもわたしは、変わり者らしいですから、」
首筋にひたりと刃を当てられたところで歩みを止める。
人の姿を取るわたしよりも随分と背の高い男を見上げれば、其の眼は困惑が強く滲んでいた。
此の男は、厳めしい見た目よりも随分とお人好しのようだ。
根拠は無かったが、恐らく彼はもうわたしを斬り付けるようなことはしないだろう確信があった。
それに、所詮人の子が作った武器で、わたしを傷つけることなどできはしないのだから。
「そんな儚く、愚かな人間が、」
わたしに刀を突き付けたまま強張った表情をする男へとゆっくり手を伸ばし、血飛沫に汚れた頬にそっと指を添えた。
男の暖かなその体温は、触れるか触れないかの指先を伝い、わたしの手の冷たさを浮き彫りにする。
嘗て人間であった頃の「私」にも、こんな温もりを抱く血が通っていたのだろうか。
そうならば、其れはさぞや美しい鼓動を奏でたことだろう。
此の強い眼の色をした男の鼓動もまた、ちっぽけで、儚くて、そして、うつくしいのだろう。
「すこし、いとおしい。」
男の頬に残る傷跡を撫でて、わたしは少しぎこちなく微笑んだ。
(10.3.28)
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