冷たい床

 












もう夏も終わりに近付いて、残暑が少し影を残すけれど、風は随分と冷たくなってきた。

もうすぐ夏が終わる。

悲しいような嬉しいような胸の内のくすぐったさに困惑させられる時期だ。


自分の家で過ごす夏は終わりが待ち遠しかったのに、私は今夏が終わるのが悲しいとさえ思う。

もう、ここに居られなくなる。

カカシの事だから、私がお願いしたらきっと、ここに暫くは居させてくれるだろうけど、

それではいけなくて、自分なりのケジメは、はっきりさせておかなくてはならない。


極端な私は、1人なら誰にも頼ることはなく、頼る人がいればその人に甘え切って負担をかけてしまう。

愛し過ぎたら壊したくなるのと一緒で、歯止めの利かない自分を戒めていなくては、駄目になるのだ。


不安の入り混じった眼で、私は机に向かうカカシの背中を見つめていた。

何もない床に寝転がりながら両手足を投げ出して、床板の冷たさを噛み締める。

夜が迫る薄闇の部屋で、この部屋を照らすのはカカシの机の上にあるスタンドの光だけだった。

明日提出しなければいけない書類か何からしく、さっきからずっとカカシはしきりにペンを走らせている。

床に寝ている私の目線からは見えないけれど、彼はいつもよりも真面目な顔で仕事をしているのだろうか。


心地よい類いの沈黙を味わい、私はそのまま電燈をつけに起き上がることもしないで横たわっていた。

晩夏の夕闇はしっとりと生温く、今この部屋を満たしている空気がなんとも言えなく好きだ。

静かな部屋に聴こえるのはカカシのペンを滑らせている音と、蝉の捩じれた合唱。


?」


ふいに手を休めたカカシが、私の名前を呼んだのでそっと目を開くと、

いつもはしない眼鏡をかけたカカシの顔がスタンドの逆光で影になって見えた。

眩しくて、私は少し手を翳す。


「何?お仕事、終わったの?」


「いや、まだなんだけど。・・・そんな所に寝てたら身体痛くなるし、風邪ひくよ。」


「いいの、床、冷たくて気持ちいいのよ。」


笑いながらそう言うと、カカシは呆れたように苦笑いして、また机に向き直った。

少し丸めた背中も、やっぱりスタンドの光によって影になり、眩しくて見えにくかった。

何時のまにか、外もこの部屋も完全なる濃紺の夜が訪れていた。


「電気、つけようか?」


「いや、大丈夫・・・。もう少しで終わるから、そしたら夕飯にしよう。」


「うん。」


夕飯は暗くなる前に、とっくに私が作り終えていた。

少し冷めているかも知れないけど、また温めればそれでいい。


私は、ようやく覚悟を決めて、一番言わなければならない事を言う為に口を開いた。


「カカシさん。」


「ん、何?」


「私、明日にはもうお家に帰るね。」


突然の私の宣言に驚いて、カカシは思わず私を振り返った。

ギシリと鳴る椅子の音が愛しい。

彼は、少し驚いたように目を丸くしている。


「もう、夏も終わるから。

 ・・・だから、もう、お家に帰るね。」


私は身体を起こしながら、もう一度同じことを言って、座り込んだままカカシを真直ぐに見つめる。

視線はぶつからない。でも逸れることもない。暗くなった部屋ではただお互いの朧げな輪郭が浮かんでいる。


「別にまだいてもいいんだよ?」


「ごめんね、ありがとう。でも、帰らなくちゃ。

 ずっと此処にいたいとは思うけど、でもそうしたら私は駄目になっちゃうよ。」


私の言葉の意図も気持ちも何も、カカシは全部気付いているようだった。

少し間をおいてから、そうか、と薄笑んで言ったきり、ゆっくりと机にまた向き直る。

明日はもうこんな時間は過ごせないと思うと寂しくて仕方なかったけど、

本当のことを言えばただ日常に戻るだけなのだ。


別にカカシに会えなくなるわけでもなければ、二度とこの家に入れないわけでもない。

休日にはここに遊びに来ることもあるだろうし、カカシとは毎日会う。

この夏の間が、ただ特別な非日常だっただけなのだ。

なのに、この悲しさと寂しさと名残惜しさは、一体私の身体の中の何処から来るのだろう。


「・・・私ね、」


彼の背中に、静かに話し掛ける。

こちらは振り向いてくれなくていい。

ただ聞いて欲しいだけだった。


「約束は、嫌いなんだけど、守れるかどうかもわからないものは嫌いだけど、」


私が願った通り、カカシはこちらを振り向かない。

でも、手は止まったままなので、私の声を聞いてくれているのだろう。

じっと耳を澄ましている、そんな雰囲気が感じ取れる背中だった。


「でも、・・・・また、来年の夏も、ここに来て、いい?」


毎年ここで過ごすのは、お互いに何も言わなくても成立する約束の一種のようなものだった。

改めて「約束」をすることがどれ程怖いことだろうか。

このはたけカカシという人物は、来年があるかどうかも不確定な「忍」であるというのに。

約束が果たされない時、一番傷つくのは約束を求めた私自身なのだ。

敢えて私達が束縛を望まず、曖昧な方を望んできた理由がまさにそこに集約されていた。


どんな綺麗ごとも、シビアな未来には到底かなうはずもない。

無難な方法で、狡いかも知れないが、そうすることでしか毎日を過ごすことも出来なかった。

臆病でもいいから、せめて何も畏れないように、この現在が幸せであることを願うように。


カカシが、ペンを置く音が聞こえた。

座り込んで両手を床につき、俯いていた私にとって、その小さな音は、

窓の外で重なりあう蝉の声よりもよっぽど大きく聞こえて、耳を塞ぎたくなる不安を掻き混ぜた。

椅子から立ち上がり、私の傍に来てしゃがみ込む。

ゆっくりとしたその動作を気配と音で感じながら、それでも目を開くことはかなわない。


カカシが私の頬に触れる。

目を瞑ったままの私。

カカシの首に縋り付くことは簡単だけど、そうするわけにはいかない。

不思議と私は落ち着いているのではないかと思う。

私は目を開いて、カカシの目をまっすぐに見つめながら笑った。

カカシの表情は見えなくて、でも、多分彼は私なんかよりももっと優しく、

軽やかに、穏やかに笑っているのではないだろうか。


カカシが私の頬から手を離して、言った。


「来年の夏が、また楽しみだよ。」


私も楽しみだった。とてもとても楽しみだった。























end.


約束、した。

(02.10.25)


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