かみさまのおにんぎょう
父はやつれた顔を俯けて堅く眼を閉じ、私の方を決して見ようとはしませんでした。
母は痩せて骨張った頼りない両の手で顔を覆い、さめざめと泣いていました。
年老いたお二人は、深く悲哀の色を灯して並んで立って居ました。
けれど、私は知っていたのです。
彼らが本当に苦しく思っているのは、決して、娘との別れではないことを。
本当は、執拗な迄に切実に秘匿を重ねていた筈の、私と云う存在が、世間様に知られてしまった事を悔やんでおられるのでした。
そうです、お二人は、此の禍々しき異端の娘を、恥じていらっしゃったのです。
そもそもの私の異端の始まりは、生まれを預言に詠まれなかったことでした。
預言の遵守を美徳とするこのオールドラントに於いて、其れはあまりにも異常な事でした。
そして私の異常さはそれだけに留まらず、様々に普通の人間とは違う様相を呈していたのです。
父と母は、そんな私を他者に知られてしまう事を何よりも怖れ、徹底的に私を家に閉じ込めて、今日迄隠し続けて来たのでした。
鎧を纏う数人の兵隊さんに囲まれながら、私は鳥籠の家からあっという間に連れ出されてしまいました。
私の無力な手を、黒いコートを着た軍人さんの大きな手が引いて行きました。
戸惑うような覚束ない足取りを咎めるように、ぐいと一度強く手を引かれた私は、
半ば転びそうになりながら、足早に進んでゆくその大きな軍人さんに着いて行くのに必死でした。
見上げた其のお顔は逆光のせいで黒く塗り潰されており、私は眩しさに眼が眩んで其の方のお顔を良く覚えていません。
けれど、父と同じくらいにはお年を召していらっしゃるようでした。
私はあまり頭はよくありませんでしたが、此の状況を何となく理解していたので、
私が父と母を振り返るような事は、一度としてありませんでした。
粗末な家のすぐ近くに停められていた、牢獄を模したような簡素な馬車に押し込まれ、
いきなり両手をぐいと掴まれたかと思うと、私の手には少し大きすぎる無骨な手錠を掛けられました。
其れを私の手に取り付けたのは先程迄私の手を引いていた方ではなく、其の方に付き従っていた、まだ若い軍人さんでした。
全くの無表情を一片の隙も無く張り付かせている其の軍人さんの顔を見るともなく見上げると、
抑揚に乏しい涼し気な声音で、その手錠に対する説明を簡潔に告げられました。
曰く、封印術に似た特殊効果を齎す譜業であり、無理に外そうとしたり、逃げようとすれば私はどうやら死んでしまうのだそうです。
私は何だか少し可笑しくなってしまって、思わず小さく微笑みながらこくりと一つ頷くと、
私を見下ろしていた彼はお人形さんのように綺麗な無表情のままで、けれど少しだけ眉を顰めました。
きっと、彼は私が何故微笑んだのか分からなかったのだと思います。
手錠を掛けられて笑う私は、よほど奇妙に見えた事でしょうから。
けれど私は其の時、本当に、少し可笑しくなってしまったのです。
だってそうでしょう、私は確かに異端な化け物ですけれど、だからこそ、こんなもので繋いでくださらなくとも、
何処にだって帰る家も逃げ込める場所も、もう存在しないのですから。
彼は眼鏡のレンズの向こう側から、その紅玉のように赤い瞳でじっと私を射るように見下ろし、
けれどすぐにふいと視線を逸らして颯爽と同じ馬車に乗り込み、私の斜め向かいの席に座りました。
馬車の扉がぱたりと閉じられて、車輪は回り、私と赤い瞳の軍人さんを乗せた小さな牢獄は、何処かを目指して走り出して行きます。
何処か、とは申しましたが、目的地なら大体分かっています。
具体的な地名までは知りませんが、いろいろな難しい研究をする為に建てられた軍の施設に向かっているのです。
其の研究所が私にしあわせをくれる場所では無いことは確かです。
恐ろしくないと云ったら嘘になります。
けれど、私にはもう、其処以外に生きる事を赦された場所が無いのですから、仕方がありません。
私はこの国が大好きです。清らかな水と豊かな緑に溢れたこの国は、とても美しいのです。
この国を治めていらっしゃる尊い皇帝陛下のお役に立てるのでしたら、私が研究所に連れて行かれる事で、
恐ろしい気持ちになることも、不安な思いをすることも、無駄にならなくて済むのではないでしょうか。
ああ、いえ、本当は、よく分からないのですけれど。
私は皇帝陛下の事はよく知らないのです。
帝都からは少し離れたこの小さな村から、私は一歩も出た事がありません。
こんな小さな田舎の村では、あまり帝都のお話も、聞こえては来ないものですから。
けれど、この美しい国を治めていらっしゃる程なのですから、きっと、素晴らしいお方なのだとおもうのです。
それから暫くの間、がたがたと揺れる音だけが響く中、馬車の壁面に嵌め込まれた小さな窓の向こう、
流れて行く緑の景色を私はただ呆然と眺めていました。
時折遠くに小さな魔物達がじっとこちらを窺っている姿が見えます。
名前は知りませんが、けれど、然程凶暴ではない、か弱い生き物たちです。
走り行く馬車を見つめる其の姿が、何だか私をお見送りしてくれているように見えて、
少し胸の奥が柔らかく波打つような心地になりました。
ふと、向かいから衣擦れの音がしたので振り返ると、ゆるりと脚を組み替えた軍人さんが、
じっと私に視線を注いでいるのに気が付きました。
私は何か、彼の気に障るようなことをしてしまったのでしょうか。
少し困惑した私は、首を傾げて彼の温度の無い赤い瞳を見つめ返しました。
けれど、金色掛かった茶色の長い髪がしゃらりと彼の肩から流れ落ちる以外、彼は身動き一つしませんでした。
彼は何だか少し怖くて、けれど不思議な人です。
とても美しい造作のお顔立ちをしていらっしゃいますが、決して作り物めいているわけではありません。
感情を殺ぎ落としたような無表情でいらっしゃるのに、何と云えばいいのでしょう、
そう、私には、彼がまるで人形にわざと擬態しているかのように見えたのでした。
「抵抗しないのですね。」
凛とした低い声が突然に私の耳を打ちます。
相変わらず軍人さんは身じろぎ一つせず、ぴんと伸びた姿勢のまま視線だけを私に向けています。
私は少し驚いてしまって、私に投げ掛けられたお言葉を理解するのに数秒掛かってしまいました。
小さな間にはたはたと瞬きをしてから、ようやく私は其の声の意味を飲み込んで、返事を返しました。
「逃げても意味がありません。」
もうどこにも行く場所がないので、と、私はへらりと笑いました。
軍人さんは、何かを探るような様子で眼を少し細め、薄く唇の両端を引き上げ、微笑しているように見える形に顔を歪めました。
彼は決して微笑んでいる訳ではありませんでした。
その歪め方は、どことなく、私を見るときの両親の表情に少し似ていました。
「貴方は、御自分がこれからどうなるのか、わかっていますか。」
「はい。人間ではなくなります。」
そうです、其の通りなのです。
私は人間ではなくなるのです。
父と母は、ひた隠し続けていた私の存在を認め、軍人さん達が私を研究所へと連れて行く事に同意する代わりに、
金貨と銀貨が入った布袋を受け取っていらっしゃいました。
元々異端の産まれの私ですけれど、彼らが布袋を受け取る迄は、一応は人間でした。
彼らが布袋を受け取った其の時から、私はとうとう本当に人間ではなくなってしまったのです。
其れを認めてしまうのは少し切なかったけれど、でも、仕方がありません。
私にはもうどうすることもできないので、何も言えませんし、其れに対して何かを思う事も許されていないのです。
「…成る程、なかなかに、言い得て妙ですね。」
軍人さんは静かに瞬きをして、一切の感情を切り離した顔と声で小さく呟きました。
人形に擬態するその姿と在り方が、何故か少し羨ましくて、私にはとても美しく見えたのでした。
私も彼のように完璧に人形を模す事ができたらいいのに。
そう考えて、けれど、そうは成れない事にも気付いていました。
彼は人間なので、だからこそ人形を真似る事が出来るのです。
残念ながら、私はもう人間ではないのですから。
「貴方なら、きっと良い実験動物になれますよ。」
そう云って、彼はにっこりと笑顔を浮かべました。
笑った顔のお面を付けているような、とても綺麗で完璧な、空洞の笑顔でした。
他者の感情の機微に疎い私ではありますが、其の言葉が皮肉と呼ばれる類いの、
どちらかと云うと悪意を込めたものであることには流石に気付いていました。
しかし、彼の吐き捨てるような其の嘲笑と侮蔑は、私の心には残念ながら届きませんでした。
私は困ったようにゆるりと笑みを佩いて、小さく頷きました。
すると彼は再び無表情を貼り付け、何事も無かったかのように静かに私から視線を逸らしたのでした。
其の横顔が何故だかとてもかなしいもののように思われて、思わず口を開きかけましたが、
少し躊躇い、結局言葉を飲み込んで、私は再びただ窓の外の景色を呆然と見つめるのでした。
(「あなたなら、きっとすてきなおにんぎょうさんになれるわ。」)
(きっと、そんな事を云われても、彼は喜んだりはしないでしょうから。)
いつか彼が人形に擬態するのに飽いた時、またお会いしてみたいな、と私は考えました。
私はもう、人間には戻れないけれど。
fin.
(10.8.3)
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