ファミレスミッドナイト












風呂から上がり、そろそろ髪も渇き始めた頃、一宮は大きく溜め息を吐いて、

疲労からふわふわと浮くような妙な浮遊感に駆られながらソファーに乱暴に座り込み身体を深く沈み込ませた。

明日は休日である為か、今日は野球部部員も妙な高揚感に浮かされていたらしく、

練習が終わった後も多くの部員達が部室の周囲に座り込み、いつもにも無くずるずると学校に残っていた。


彼としては早々に帰宅することを望ましく思っていたのだが、

帰るタイミングを失い、同級生や後輩達に半ば無理矢理引き止められて、

結局お開きになったのは暗くなって随分経った頃の事だった。


はぁ、と、テレヴィのスイッチ一つ付いていないような何の雑音も無いただ広いだけのリヴィングでは、

小さな溜め息もやけに響くようだった。リヴィングには彼1人だ。

テーブルの上に簡素なメモが残されている。

それは彼の両親からのメモであり、彼等が休日を利用して今日から小旅行に出かける旨だけが淡白に綴られていた。


一宮には事前に何の知らせも無く、彼がいつものように帰宅した所、唐突に此のメモだけがぽつりと残されていた。

突拍子も無い思い付きの旅行と、一宮に対する指示等が一切省かれた簡潔すぎるメモ。


普通なら憤りなり呆れなり感じる所だが、このような両親におよそ18年間育てられて来た彼にとって、

それはもう驚くのも面倒な類いの出来事でしか無かった。

諦めとも云うのかもしれない。

彼は3度目の溜め息を吐いた。



聞き慣れた携帯電話の着信音が無遠慮に沈黙を薙ぎ倒していく。

彼は一瞬ぴくりとして、深く腰掛けていたソファから緩慢に身体を起こし、

リヴィングの隅に無造作に放り投げてあった鞄を取りに行く。


投げ遺りなふうで鞄から滑稽な迄にけたたましい小さな機械を眉を顰めながら摘み出し、

ディスプレイを見たが、もう夜中と区分しても良いだろうこんな時間に電話を掛けてくるはた迷惑な相手は、

どうやら非通知設定であるらしいことしか情報は得られなかった。


舌打ちをして露骨に顔を顰めたが、彼はふとした気紛れでいつもなら出ないようなそんな電話に出た。

通話ボタンを押し、ただ黙って相手が声を発するのを待つつもりで携帯電話を耳に寄せると、

聞こえて来た声、聞こえて来た言葉に、彼は何やらひどく複雑な思いがした。


『ハァイお兄さん!あたしと夜遊びしない?』


彼は即座に黙って電話を切った。

えも言われぬ表情で小さな機械を見下ろし、乱雑に開いた鞄の前に座り込んだままで此れ以上無い程盛大に項垂れた。

1週間分の疲れと、今日の無駄に消費された分の精神の磨耗が、閉じた瞼の裏でどっと押し寄せるのを感じた。

その反面、正直な所少し微笑ましい気分がしたのも、悔しいながら本当のところだった。



再び唐突に鳴り出した着信音にもう一度ディスプレイに眼をやるが、彼の予想通りそれは非通知であり、

しかし先程とは違い、もう彼は其の電話の相手が誰であるかを知っていた。

通話ボタンを押した瞬間、先程と同じ声が聞こえて来た。


『ひどい!間髪入れず切った!』


「さっさと用件を述べろ馬鹿。」


『うわー何だ君、名前も聞かずにいきなり用件に入ろうとしてるよこの人!

 何の為にわざわざ非通知設定に変えて掛けたと思ってるのさ、

 もっとびっくりどっきりを楽しみたまえよー。

 サァ、私は誰でしょう!ひひ!』


「はぁ…あのなぁ…。」


『…なんつってな。』


はは、と、先程よりも多少落着いた低めの声が聞こえて、彼もようやくやや真面目に対応し始めることにした。

スピィカァからは遠巻きなざわりと云う雑音が電話の相手の声に混じり、

その背後から流行りの歌であるらしい空っぽで陽気な音楽が小さな割れ音で聞こえて来た。

彼は何気なく雑音に怪訝な顔をする。


「で、さん、こんな時間に俺に何の用。」


『一宮くんてばあんな馬鹿な内容でよくそんなにすぐに私だってわかったね。

 あ、そうか、私が馬鹿だからか?』


「あぁそうだな。」


『えへへ、なんだよその気の無い棒読み返事。』


彼女、の云う言葉自体は軽いが、声音は不似合いな程に落着いていて、何となく電話の向こうの何処かで、

彼女が静かに眼を細めるだけの小さな微笑を浮かべている光景が脳裏に過った。


すぅ、と微かに息を吸う気配がスピィカァから聞こえて、彼は意味も無く少し驚いて、何度か瞬いた。

そして其の事を意味も無く打ち消したい気持ちになる。


『あのさ、用って云うか、そんなたいしたことじゃ無いような感じなんだけど、

 もし今ある程度の時間を外で潰してもいいくらいにきみに心の余裕と暇があったら、

 ちょっと夜遊びでも如何かしら、って。こと。なんだ、けど。さ。』


「意味わかんねぇ。用件は具体的かつ明確かつ簡潔に述べろ。」


『あー、あー…。』


何となく想像が付くような気もしたが、やはりの云う事は要領を得ず、

云い方は少々きついがなるべく穏やかに彼が云うと、

それに少し安堵したような素振りを見せながらも彼女はまだ半端な声を上げて迷うように言葉を選んでいた。

そして、ふと吹っ切れたようにはっきりと云う。


『夕方聞いたあの話のせいで何かぶっちゃけ恐くて家に帰れないので近所の24時間営業中のファミレスで1人でお茶しながら時間潰しをしてます色んな意味でたすけてくださいすみません本当。』


「あの話、って、…もしかしてあんた本当に本気で駄目だったのか?」


『だから……あぁもうちくしょう、あの時私あれほど帰るって云ったでしょう!

 だのに一宮くんてばあっさり見捨てやがって…fuck!』


は情けないような苛々したような声で小さく叫ぶと、脱力して机に突っ伏すような音が聞こえた。

何と云って良いやら考え倦ねて、一宮もまた、漸く鞄の前から立ち上がり、ソファに戻ってどさりと座り込んだ。


あの時、あの話、と云うのは、夕方の部活終了後の出来事のことだった。









夜が来るのが早くなり始める頃とは云え、残暑は未だ夏を主張するようにじりじりと肌を蒸す此の季節。

陽も随分と傾き掛けた頃には厳しい練習もようやく終了の合図が下された。


砂塗れの少年達が汗を拭いながらぞろぞろと列を為してグラウンドを出て行く。

学生服に着替えた後も何となく成り行きでその場に留まっていた部員の面々だったが、

何のきっかけだったか覚えてもいないような些細な話題から、けだるさの中にも暇を持て余した少年達の話は、

何故だか納涼を誘う怪談話へと向かって行った。


「じゃあ、1人ずつ何かいっこ恐ぇのを話すこと、いいな!」


威勢よくそう云った猿野を中心に、1年から3年迄の面々が暑苦しくも集まり来てベンチやら地面やらに座り込み、

誰が最初に話をするのかを決め始めた時、私はそっと音を立て無いように低姿勢でその場を離れようと輪に背を向けた。

…のだが。


ちゃーん、どーこ行ーくのっ?」


可愛らしいボーイソプラノで、それとは裏腹に力強くがしりと掴まれた腕に内心冷や汗を流しながら、

私は見るからに厭そうな顔を態と作って、無邪気そうに満面の笑みを向けてくる兎丸を睨み付けた。


「何処も何も無い、私は帰るんだ。」


ぶっきらぼうに言い捨てて、腕を掴む兎丸の手を外そうと反対の腕を動かそうとした所に、

其の腕迄も、他の誰かの大きな手によって掴まれた。

厭な予感はしていたのだ。


私はそもそも野球部のマネージャーでも何でも無いし、たまたま此処を通りかかり、

マネージャーをしている友人と立ち話をしていた為に偶然此の場に居ただけなのであって、

嗚呼、もう、本当にさっさと帰れば良かった。

泣きたい気持ちでそんなことを思い、私は心底詮方ない後悔をしていた。


「帰るだなんて連れないこと云うなよNa!」


「つれようがつれなかろうがどうでもいいのでとにかく私は帰ります。

 …は、な、し、て!」


有無を云わさず振払おうとしても、虎鉄と兎丸によって無駄に力強く両腕を掴まれて動くに動けないまま、

無駄だとはもう既に気付いていたが、其れでも断固帰るのだと云う意思表示を全身でアピールしてみた。


「ははは、くん、怪談は苦手なんだね。」


「…牛尾君…」


困ったような優しそうな、曖昧なふうに笑いながらも、牛尾は私を庇うと云う事は本当に思いもしていないらしく、

そんな彼だからこそ一層恨めしく思わずにはいられなかった。


あからさまに顔を顰め憮然とした表情を作ったまま周囲をちらりと横目で見渡しても、

誰1人として、私を帰らせてやれよと一言云ってくれるような人間は居ないらしい事は云う迄も無かった。


誰も私が本当に嫌がっているとはつゆほども思っていないのだろう、と冷めた頭で思う。

適度な疲れのせいで尚更ハイになっているのだろう、皆は、私を含めた此処に集まっている全員が、

余興のようなけだるく適度にスリルのある話題を心の其処では求めていると信じ切っているようだった。

それは一切の悪意の無い、子供の無邪気さであった。

だからこそ、私は彼等の和やかな空気を壊して迄、強く此処を辞退したいという意志を押し通す事が出来なかった。


しかし私は本当に怪談の類いは心底苦手で、実の所、此の場における無意識の好奇心さえ無かったし、

冗談では無く本気で、話など何も聞かず、暗くならない内に切実に早く帰りたかった。

今こうして大勢の人と共に此の場にいるだけならば怪談話の恐さも納涼の余興と軽く捉えられるだろうが、

いずれは家に帰らなければならない。


1人暮らしをしている私にとって、家に帰って1人きりになる其の時間が、ほんとうにおそろしかった。

根拠の無い恐怖心に怯える自分が情けなくもあったし、

また、根拠が無いと分っていながらも、それでもどうしようもなく些細な全てが恐ろしく思えてしまう。


両腕を掴まれたままぐいぐいと楽しそうな二人に無理矢理元の場所に座らされて、

そしてそれを皮切りにまずはありきたりなところの定番話から始められて行く。


、恐かったら遠慮なく抱きついて来ていいんだZe?」


ようやっと両腕の拘束を振払ってしまうと、やけににやにやと厭な笑みを浮かべて調子良く虎鉄が云う。

彼らしい軽い言葉だと何の感慨も無く思いながら、顔を見もせずに、勢い良く中指を立てて彼の鼻先に突き付けた。


半ば縋るような気持ちで耳を塞ぎつつ(そして両隣からそれを引き剥がされつつ)

視線だけで集まった面々を見遣ると、ふと一宮一志と眼が合った。

私も彼も一瞬驚くように少し眼を見開いたが、一宮はすぐにふいと私から視線を逸らして、

つまらなそうにも見える無表情のまま胡座をかいた膝に頬杖をついた。


(あーもう本当に最悪ですなあのひと…。)


見ていたなら助けてくれてもよかろうという恨みがましさを込めて、私は一宮の無表情な涼しい横顔を睨みつけた。

耳を塞いでは引き剥がされると云う攻防を飽きもせずに続けながら、

暑さは増して行くのに、徐々に汗の温度だけが冷えていくのを歯を食いしばるようにして黙って耐えていた。



 




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