私と君と、時々隠れてくちづけを交わしている。

近頃、君の唇は少し甘くなった。













ヴァニラ・ハイ













放課後の部活は私にとって、とてもけだるいものに過ぎなかった。

表面上の仲間が海月みたいにふらりふらりと辺りを漂っているようで、

現実感の無い海月達だけの水族館は私を飽きさせるに十分だった。


其処で、まぁ至極当たり前のことなのに忘れがちなことなのだが、

その何の目的も無く適当に笑いながら漂う海月の中には、

私自身も含まれているということだ。


私達は日々泳いでいる。

疲れ切った身体も、水の流動に飲み込まれる此処じゃあ、休める事も無い。


此処は水族館で、けれど海ではない。

だからあるはずのない潮に波に押し流されて、

人工的なエセ海に、私達は力尽きた時、散る。


海じゃ無い。だから、還れない。

けれどそれなのにひどい流動は絶えない。


「お疲れさまでしたー」


部長を任されている同級生が部員達にそう投げ遺りに告げると、

思い思いの方向へと此の集団は散って行った。

2、3の群れを作り夕闇に溶けてざわめきが次第に分散されていく。


私は一人黙って、その場に立ち尽くしたままそれら賑やかな笑い声が遠ざかるのを待った。

其処でぼぅっと惚けたように動かない私に明るい声を掛けた者もいたが、

私はお決まりのように曖昧ににこにこと笑って、気にしないで欲しい旨を軽い言葉に乗せた。

海月達の中では、理路整然とした正確な答はあまり必要とされていないのだから。


私は何故こんな半端者に甘んじながらこの部活動を続けているのだろうかと思うこともある。

でも、はっきり云ってしまうと、其の答は簡単で、惰性以外の何者でも無いのだ。

活動するのも面倒だ、でも、辞めるのも面倒。


世の中なんて面倒で退屈で、美しいものと醜いものが無数に溢れかえっているんだろう。

吐いた溜め息は、私にしか聞こえない演劇じみた大層な嘆きに還元された。


一度眼をきつく瞑り、ゆっくりと、しっかりと眼を開いて、

確かめるように私はようやく取り残された此処から歩き始める事にした。




こんな時間帯に私が向かう先と云うのは、まぁそれ程選択肢が多い訳ではない。

住処とする家か、学校近くのコンビニ、家の近くのスーパーマァケット。


私は空っぽに近い程に軽い鞄を右手にぶら下げながら、靴を履き替えて校門を出た。

ちろりと横目に見えたグラウンドは、疎らに黒い影に包まれた人が小さく幾らか見えるだけで、

既にいつもグラウンドに陣取っている生徒の多くは帰宅したらしかった。

最近やたらと眼に入るようになった野球部も、もうほとんどいないようだ。


そう考えて、ふと、其の事にある種安心している自分がいる事を自覚した。

別に会いたくない訳では決してないのにと、不可解な自分の思考回路に少し気を重くしながら、

視界の端に残るグラウンドの土色を振り切って校門をくぐった。


一度重くなった気分にはもう真直ぐに家に帰る気力が無くて、

いや、わかっている、こう考えるのは単なる逃避に過ぎない、

しかしだからこそ私は敢えて逃避に縋ることにした。


家路と微妙に逸れた曲り角を伝い、私は覚束ない足取りで、

あやふやな記憶を手繰りながら脳内に描かれたいい加減な感覚的地図に導かれた。


暫く今向かう其の場所に行っていない。

何となく忙しい気分だったとか、行く必要性を見い出さなかったとか、

細々とした理由はあったけれど、大きな要因と云うのは別段無かった。

強いて云えば、ただ私は至極気紛れな人種であること。



仰ぎ見たのは崩れかけの小さな廃虚だった。

頼り無い記憶に従ったにしては迷わずたどり着けた事に少しだけ驚きながら、

私はその廃虚と化した建物にさも当たり前のように侵入していく。


外れた鉄の門扉の隙間から身体を滑り込ませ、白い花崗岩の敷かれた玄関への短い通路を行く。

整然と長方形の花崗岩を敷いた細い通路の両脇は、背丈の高い雑草が青々と生茂り、

花崗岩の隙間からも所々細長い草が生えている有り様だった。

この荒れ様が、空虚な胸腔をしとしとと切ない草の匂いで埋めてくれるような気がしていた。


骨組みが半ば剥き出しになった壁面に、重々しく威厳高かったであろう扉が、

今はもう見る影も無い程に白く表面の風化した様相を沈黙にたたえていた。

扉に掛かっている酷く錆び付いた鉄の錠は、

強く引っ張れば簡単にかちりと音を立てて私を許すはずだ。


しかし、此処で不思議な事に、錆び付いた弱々しい錠が既に開いていた。

私は少し警戒し、毛羽立った表面に皮膚を引っ掛けないよう分厚い木の扉を静かに押し開けた。

音を極力立てないで足音を忍ばせ廃虚の内部に取り込まれると、扉を元のように閉めた。


薄暗い中、木材や漆喰の壁が少しずつ分解されて崩れ落ちていくような、

ひんやりとした退嬰の匂いが廃虚内には満ちていた。


崩れ掛けの壁、腐り壊れた木の古めかしい階段。

色つやを失い所々割れた床板は、長年積もり積もった埃と砂利に覆われていた。

優美な曲線を描くソファや猫足の机、そんな置き去りの家具もただ風化を待つばかりだ。


室内に相変わらず満ちている、一つの建物の死にゆく馨りを感じた私は、

侵入する前に張り詰めていた警戒を忘れる程、ひどく穏やかな気分になった。

退嬰の腐食が呈する、この建造物の息絶える有り様はあまりに美しく、

私を美徳的破滅願望に陶酔させた。


この廃虚には気が向いた時、極稀にしか訪れないが、それでも忘れた頃に必ず訪れてしまう。

そうした不思議な衝動と気分は、この建物の死の馨りが与えてくれるその陶酔のせいだろう。

このまま一緒に連れていって欲しいと強かに願うような、私を魅せる厳粛な退廃。

此の廃虚は私の内に僅かに生存するペシミズムを喰らい、それらを静かな幸福に還してくれる。



ギシッ


突如沈黙を破った床の軋みにはっとして、私は音の発生した方向に視線を彷徨わせた。

誰かいるのだろうかと眉を顰めたが、怖いと云う気分にはならなかった。

絶対的に見知らぬ侵入者では無いという確信は無かったが、

されど私以外に此の場所に居るだろう人物は、私には一人しか思い浮かばなかった。


ともかく私は音がしたと思われる部屋の奥に向かう事にした。



部屋の奥には扉の無い入り口があり、其処からは明るい光が洩れている。

私が今いるのは玄関扉を入ってすぐのホールのような部屋で、

その壁には幾つかの扉が存在するが、奥にある扉の無い部屋以外は、

扉が開かないものだから入れないのだ。


2階へは階段が腐り抜けているので梯子か脚立でも無ければ行くことはできない。

よって、私の他に人がいる可能性があるのは扉の無い奥の部屋しかないのだ。


奥の部屋は書斎らしく、入り口の両隣りの壁面には天井迄びっしりと本棚に埋められ、

入り口の正面の壁には、窓の少ないホールとは違って明かり取りの窓が大きく取られている。


普通書斎は本の劣化を防ぐ為光は最小限に押さえられるはずだが、

どうやらこの家の嘗ての所有者はそんなことには無頓着だったらしい。

おかげで大きな本棚に疎らに入れられている本の殆どが陽光によって変色して、

表紙の文字はとても読めるような代物では無かった。



扉の無い入り口の壁に取り敢えずは身を隠しながら、そっとその嘗ての書斎を覗いた。

其の途端に、濃い煙の匂いが鼻先を掠めた。


覗き込んだ室内には案の定、私が予想した通り、

一宮一志が、窓際に設置されたスプリングが少し飛び出したような、

埃を被った古いソファに座っていた。


彼は煙草に似た細い筒を銜えており、其の先からは紫がかった白い煙が出ている。

煙草に似てはいるが、それは葉巻らしかった。

その証拠に、彼が加えるその筒は、紙巻煙草と違って葉の色を曝け出すような褐色だ。

室内に充満した煙のその濃い香も。

妙な納得感に少しだけ満足して、私は2回瞬きをした。



近頃君と交わすくちづけの甘いのは、そういうことか。



「来てたんだね、此処に」


そう声を掛けると、床の一点を睨んで眼を伏せていた一宮がさっとこちらを見た。

驚いたように眼を少し見開くとすぐにまた眼を逸らし、

銜えていた葉巻を黒い携帯灰皿に押し付けた。


法律的には悪い事かも知れないが、私に対しては特に悪い事でもないのに、

彼はばつの悪そうな顰め面をした。

黒い携帯灰皿は、そんな彼の心境と、少しの怖れと、

几帳面さ、それと、背徳への後ろめたさを露にする。


彼は自分を私に悟られる事を良くは思わない癖に、こんなにも無防備に全てを仕草で物語る。

つまるところそれは彼の無意識の意思表示で、私に対する表現行動らしかった。


少し彼に微笑んで、私は入り口の壁面に背中を預けて、汚れに曇る窓の向こうの空を見上げた。

薄紫と桃色と、淡い水色のグラデーションが滲む。

この廃虚と空とは、汚れた硝子窓一枚を隔てた、まるで別の世界だった。

匂いも空気の重さも温度も何もかもが、此処は異質だ。


「私にも頂戴」


「・・・何をだよ」


「シガー」


「知ってたのか」


「吸ってる事?それとも吸っているものがシガーだって事?

 どちらも知ったのは今。」


「そんなもんか・・・」


一宮は独り言を呟くように、また曖昧な言葉でそう自己完結した。


彼は黙って胸ポケットから少し歪に潰れた箱を取り出して、私に差し出した。

葉巻なので当然のことながら、普通ではそこいらの、

誘蛾灯よろしく虫を引き寄せているようなヴェンディングマシーンでは見かけない箱だ。


いかにもな外国産の色褪せたような不思議な装丁が美しいと思う。

一宮に似合わないような、だからこそかえって不釣り合いさが似合うような気がする。

そもそも彼が煙草の類いに手を伸ばすことがとても珍しい事のように思えた。


一宮の座っているソファに同じように腰掛けて、彼の差し出す箱から褐色の筒をひとつ摘んだ。

(ソファに降り積もった埃が気になったけれど、まぁ後でスカートを払えばいいかと思った。

 几帳面だったりアバウトだったり、そういうところは自分でも区切りがつかない。)


一宮とは火を差し出してくれるような気の利くひとでもなかったので、

ライターを借りて自分で火を付けた。

葉巻と紙巻煙草の大雑把な違いはわかるが、吸い方まではさすがに知らなかった。

なので、とりあえずは普通の紙巻と同じように火を付けて吸った。


さん、吸った事あんのか」


「あぁ、まぁね。紙巻の方なら。

 常習者じゃないから、本当にたまにだけど。

 ・・・さも意外そうに云うんだね」


くすくすと押し殺しながら笑うと彼はやはり少し機嫌の悪そうな顏をする。

こういう時は表情にすぐに出てるんだよ、君ってば。


(一番必要な時に限って、何一つ手の内を明かさない癖に)

(君は酷く狡い)

(そしてそれはまた私も?)


「私、葉巻って初めてなんだけど。

 本当にフィルターが甘いんだ。」


そんなつまらない感想を述べながら私はいろいろなことを考えた。

煙を口に含む度少しずつ唇に付着し始めた甘さに、

少しの背徳感と冒険心、見なれない嫌悪感を感じていた。


煙に満たされていく狭い室内で彼が煙を口にしたのは、きっと一度や二度ではないのだろう。

かといって、何故、とか、理由を詮索するつもりも無いし、

自分にこうして此処に来ている事を教えてくれだなんて、

馬鹿馬鹿しい支配欲に駆られたつもりもない。


私は彼の事が好きだが、私と彼の関係と云うのはとてもドライなものだから。

だから、少し、今日此処に来たことは失敗だったかな、とも思うのだ。

なのに、不思議と此のスプリングのはみ出したソファの居心地が良くて、

廃虚の空気が素敵で、帰る気には到底なれない。


「よく俺が此処に居るってわかったな」


「偶然ね。探しに来た訳じゃ無いんだけど、たまたま此処に寄ってみたら君が居た。

 それにさ、そもそも此の場所は私の秘密基地なんだよ。

 此処を一宮くんに教えてあげたのは、私」


「はいはいそうだったな」


「うわ、何だよその言い方、何か嫌味ー」


「うっせ」


「・・・・・・あのさ」


「まだ何かあるのかよ。

 さんて話題を小出しする癖、あるよな」


「えぇい、黙らっしゃい。

 (ボキャブラリーが少ないからすぐに会話が尽きるんだよ!)

 いやね、ただ、そういう訳だったんだなーと思って」


「意味が通って無い」


「近頃君の唇は微かに甘くなった」


私がそう云うと、彼は口を開いて無表情に私の顔を見た。

相当私が柄にも無いような事を云った事に驚いたらしく、

片手で弄んでいたライターをぼとりと落とした。

失敬な奴だな、と思いながら、少ししてやったりという気持ちになるのは、

多分彼が負けず嫌いで、私はそんな彼の意地を張る様を見るのが面白くてたまらないからだ。


「じゃあ、近頃君は綺麗になった」


何でも無いふうな顔をしながら、確かにそう云った一宮に、

左手の指に挟んでいたシガーをぼとりと落とすのは今度は私の番だった。


「なんつってな」


にやりと嫌味な笑みを口元に浮かべて、頬杖を尽きながら一宮は優雅に私の顔を覗き込んだ。

大抵予想の範疇に納まる彼の言動は、ときどきこうして反旗を翻す。

このたまに来襲する予測不可能事が私を大いに戸惑わせる。


こういう側面が無視出来なくなる程に存在感を残し、しかし普段は私の予想に納まり、

彼はそうして実は私を手の内に収めて笑っているのかもしれない。

それがくやしい事と、そのように尊大に私を手中に収めてくれる彼を好きな事は、

もはや逆説的な真理なのだろう。奇怪な確信がある。


「・・・・ったく、らしく無い事云うもんじゃ無いわ、ほんと。

 何よ、一宮一志の癖に。」


腹いせに、そう呟きながら私は床板に落ちたシガーを踏みにじって火を消した。

どういう意味だ、と窺わしい眼で問う一宮を無視して、私は唇を少し舐めた。

あまり甘味は感じられなかったが、少しだけあのシガーの馨りがする。


そりゃ綺麗にもなるさ、だって、私はおんなだ


自分に深く深く言い聞かせるように低い声で私は声なく呟いた。


そりゃ君に手の内で転がされる事でさえ愛しくもなるさ

だって、私はそんな君もそんな私も悪く無いって、思ってる



何だかふわふわと覚束ない気分で、私は思い付いた質問を彼に無感動に投げかけた。


「もし私が今から遠くへ2人でカケオチしようって云ったらどうする」


「何かめんどくさいから厭だと云う」


「じゃあもしも私が一宮くんと別れたいって云ったらどうする」


「わかったって云う」


「じゃ、その後でもう一度付き合いたいって云ったら」


「わかったって云う」


私は一宮の顔を見なかったが、私が何の感慨も無く質問しているように、

きっと彼も何の感慨も無く返答していて、表情もないんだろうと思う。


そしてきっとその質問が現実になっても、そんな答えの通りに、

ただ彼は全ての世界を何の感慨も無くひたすらに受け入れるのだろう。

そう知っていても少しも哀しく無いことがなによりも幸せだった。


「満足かよ」


一宮がぼそっと問う。

頬杖をついて天井をつまらなそうに見上げる彼を少し横目で窺い、視線をすぐに戻した。


「あぁ、答としては満点だね」


シガーのように後々に唇に残る甘さには、彼自身には興味が無いのだろう。

私も残像なんて求めていない。

全てが味気ない灰色に変色して虚しくなるからだ。


でも矛盾するように、逆説的な真理はひらすらに高い笑い声を響かせたままでも、

私は、彼に残る甘さを貪るのは嫌いじゃ無いのだ。


噎せ返る程の紫煙とシガーのヴァニラに酔って、

私は彼の首筋に少しだけ欲情して天井を仰いだ。


















Fin.




 

 

退廃、しがない言葉遊び、少しのフェティシズム。

(03.10.6)







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