月に負け犬 夜天に虚勢














もう太陽の死んだ闇の刻、実際の重量以上に重く感じる鞄を肩に掛け直した。

リノリウムの薄汚れた白い階段を降りていくと、

正面の空には見開いた眼球のように丸い青白い月が引っ掛かっている。

僕は何度目かの重い溜め息をついた。(肺が何かに侵されたように汚濁している気がする)


星の見えない都会の、濁った夜天の紺碧は、月だけを異様に浮き出させて気味が悪い。

尤も、僕は美しい満点の星空など見たことはないけれど。

それはそれでどうでもいいことで、また、星が多すぎても落ち着かなくてかえって気味が悪い。


どちらにしろ僕にとっては全てが違和感を覚える環境で、

所詮その有り触れたものごとの中で妥協して、それなりに生きて行くしかないことを、僕は知っている。

(この思考の産物については誰にも話したことがない。

 何故って、誰に話したところで理解を得られる訳でもなければ理解されたい訳でもないからだ。)


肩に食い込む鞄の持ち手が痛い。

鞄の中に入っているのは、学習に使用する紙と書く道具、たいして好きでもない歌の入ったMD。

入っているのがたったそれだけなのに、相当に重いような気がするのは、やはり僕の気分の問題なのだろう。

何故か今日は不思議と深く気が滅入る。


(あぁ、下らねぇ。下らねぇ。)


建物を出て夜風を浴びながら、視界を散らつく髪を掻きあげた。

湿り気を帯びた冷たい風のせいで、その感触さえ不快だ。


鞄を反対側の肩に掛け直して、重い足をアスファルトに引き摺り、歩き出そうとした。

その時だった。


「おーい」


一瞬ぴたりと止まったが、僕は今日ついた溜め息の中でも最も深い溜め息を吐き、構わず歩きだす。

敢えて此処で出会う必要性もない声だのに、できれば幻聴であって欲しかったのだ。

面倒なことは、気が深く滅入る今日は、まったく御免だ。


「おーい、一宮くーん」


この声を聞くと、振り向きたくもないのに、振り向かなければならないような気分にさせられるから、

その認識不可能な因果関係が心地に悪く、だから余計に厭だった。

そんな面倒な事さえなければ、それほど不快な音質の声でもないはずなのに。


「何で、さんがこんなところにいるんだよ」


背後の薄闇に包まれてほんやりと浮かび上がる人影は、同級生のという女生徒だった。

軽く上げている白い手と顔、脚だけが、先程僕が出てきた建物の灯に照らされて浮かび上がる。

彼女は黒い衣服に身を包んでいるらしく、肌以外はまったく闇に溶け込んでいた。

奇妙なコントラストが、昼間には見知っている彼女を、まるで別人であるかのように見せている。


は、薄く笑んだ。


「さぁね、夢遊病の気でもあるのかもよ?

 そう云う一宮くんはどうしてこんな遅くにこんな所にいるの」


此処って結構有名な塾だよね、と、がゆっくりと何気なくこちらに歩み寄りながら云う。

その声音には特に何の感慨も込められてはおらず、ただの純粋な問いかけのようだ。


そう、頭では理解したが、何故か、居心地の悪いような、ばつの悪い思いがした。

僕は何も悪いことも後ろめたいこともしていないのに、何故こんな気分にならなければならないのか。

不条理で理不尽な不快感が胸中に淀んだ。(理不尽なのは彼女にしてもそうだろう。)


「よく塾なんか行ってられるね。

 こんな人のいっぱい詰め込まれた箱って、私、気が狂いそうになるんだよね」


ゆっくりとした瞬きをしながら、は小さく息を吐いた。

それが何故か切なげな憂いと悲哀を憶わせた。


「そんな事云ってる場合かよ、随分と余裕かましてるじゃねぇか、受験生」


「私の事は棚上げしておくとして、頭いい癖にこんなとこに通ってる一宮くんが物好きだなーって思っただけ」


「うるせぇ。それより、そろそろさっさと帰れよ」


「それなんだけどね、」


は腕を組んで首を傾げた。

そうして、困ったような薄い笑みを仕方無さそうに零し、自嘲気味に云う。


「悪いんだけど、こんなところで出くわしたのが運の尽きだと思って、

 途中迄一緒に帰ってくれない?」


は?と、毒気を抜かれて思わず聞き返した僕の様子を見て、は困ったように苦笑した。

その苦笑は、昼間とははっきりと違った表情だった。

それに気付いた瞬間、何か奇妙な、言葉に表せないような不思議に思う感情が首を擡げた。

違和感、と云う程でも無い、ちょっとした引っ掛かりのような希薄なものだ。


「何でだよ、」


「・・・・一人で帰るのは怖いから」


「一人で来たんじゃねぇのかよ」


僕が呆れて、顔を顰めて問うてやれば、は悪びれる様子も恥じる様子も無く、

彼女に不似合いな、感情の乏しい遠い眼をして云う。


「そうなんだけど、さー・・・。

 正直、出かけた時はまだ明るかったんだけど、いろいろ考え事して散歩に遠出してたら、

 随分と暗くなってきて、何だか怖くなっちゃったんだよね」


「・・・・莫迦か、お前・・・」


「その可能性もあるけど、それは一応私の名誉の為に認めないでおくわ」


にこっと小さな屈託のない笑みを浮かべるのを見ていたら、自然と僕の溜め息も重くなっていった。









異常に煌々と仄青い月は、闇を半端に退けて道を示す。本来ならば。

しかし、ここいらじゃ、洪水のようにありふれる街の灯に押し流されてそれも消し潰される。

僕にとって、この夜は特に、店灯はきらびやかな一方で、虐殺的な猟奇の灯に見えた。

(わかっている、これはあまりに極端な錯覚だ。)


僕の斜後ろには、がポケットに両手を入れて、闇の中、白い顔で歩いている。

できるだけ歩幅を彼女に合わせてやるくらいのことはしてやったが、

それでも彼女は少し急ぎ足に僕の後を懸命についてくる。

変な感じだった。


「ここらは店も多いし明るいし、何が怖いんだ?」


「うわ、それ、なにげに酷くない?

 私も、まぁ、か弱いとは口が裂けても云えないけど、一応おんななんだけど」


は、傷ついた、と戯けて少し困ったように笑った。

どこか造りものじみた戯け方に違和感を憶えて、まじまじとの顔を見ていると、

その僕の視線の意図に気付いた聡い彼女は、すっと笑みを引かせた。

一宮くんの前じゃうっかり隠し事もできないね、と呟いた。


「でも、やっぱり怖いじゃない」


「まぁ確かに一人歩きは怖いかも知れねぇけど。

 ただ、単にそこまでさんが怖がるってのがちょっと意外だっただけだ。

 別に他意はねぇよ」


「・・・・・私はね、一宮くん、虚勢を張るのがとても苦手なだけ」


この街の夜じゃ虚勢を張らなきゃ自分の身を守ることもできないようだからね、と、

彼女は寂しげな響きを含ませて、いかにも切なそうに少し俯いた。


「辛いでしょう、」


その言葉が、どういう意味で発せられたのかわからなかった。

彼女自身が辛いということなのか、僕に対して辛いだろうと問い掛けたのか。


しかし、そう考えた時点で既に、僕は自分の「虚勢」を自分に対して露呈してしまっていた。


「分かったようなこと云うな」


ナンセンスだと自分でも思いながらつい無性に苛ついて、少し低い声で吐き捨て、彼女に言葉を突き付けた。

は何の表情も見せずに、ポケットに手を入れたまま沓の爪先を見ながら、

立ち止まった僕をすり抜けるように、追い越して先へとゆっくり歩いていった。


「分からないよ、私には何も。一宮くんの考えていることなんて特に」


何の感慨も無い声なのに、どうして、僕は、

ひどく彼女を傷つけてしまったような気がして、酷い罪悪感に捕らわれた。

悲痛な思いが見え隠れしている気がした彼女の小さな後ろ姿に、

僕はささやかな罪滅ぼしでもするかのように、悪い、と呟いた。


は僕の呟きが聞こえたのか、少し振り帰ってにやりと笑った。

気にするな、と、その表情が僕に対して軽く戯けている。


「私も一宮くんも結構相対的に見れば弱い生き物だと思うんだ」


「何だよそれ。意味わかんねぇ・・・」


「えへへ、私もわかんねぇ」


またなんとはなしにゆっくり歩き出した僕らは、

が提示してくるそんな奇妙な話題を経て、

生温い夜道を、猟奇の灯を潜り歩いていく。


は脈絡のない事をたくさん云った。

世界で一番恐ろしい生き物は人間だ、とか、

厭なことからは適度に逃げていかないとそのうち忙殺されてしまうんだよ、とか、

何の為に生きてるか分からない時は、とりあえず寝てみれば思考がすっきりするんだ、とか。


どれもとくに他意のない彼女の思いつきの持論で、賛成するには利己的な主義主張も多々あった。

しかしながら本気でその意見を彼女が押し付けるわけでもないことはわかっていたし、

その辺の暗黙の了解と適当さは、案外悪い気分のしない興味深さが有る。


ただ、少し違和感が拭い切れなかったのは慣れの問題だ。

とは学校ではほとんど喋らない。このような奇怪な会話などは、云うまでも無い。


こういう珍しい不自然さもかえって自然でいいと、僕は無意識の内に感じていたらしかった。

それを理性で認めるのは、些か悔しい心持ちがするが。


「一宮くん」


は突然僕の名を呼ぶと、ほんの指の先だけで僕の右腕に少し触れた。

あやふやな実体を思わせる、彼女の指と長い爪の冷たい感触が、針の一点ように腕に感じられた。


「私、虚勢を張るのは苦手だけど、君みたいなのは、嫌いじゃない」


月に吠えろ、誇り高き負け犬!

悲哀を嘲笑え、尊き虚勢に於いて!


それだけをぽつりと云って、笑った。

それから彼女は徐に走りだし、彼女の家路へと急いで走り去ってしまった。

振り向きもしないで少しだけ手を振り、宵闇に消えていった。


一瞬の事で、呆気にとられていたが、すぐに僕は僕の家路へと歩き出した。

この瞬間、非日常的なとの時間共有は終わった。

何か夢を見ていたような心地がしている。


ただ、しかしそれは夢では無い。

そのことは、相変わらず肩にのしかかる鞄の重みと、

右腕に残る一点の感触によって、明確に証明されていた。


















Fin.




 

 

虚勢をはる愚かさが愛しい

(03.7.18)






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