蜘蛛の糸

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人を殺した事への贖罪の為に牢屋に入れられて暫く経つが、

不思議と感情は鈍く、胸中にゆらめくのは腐臭を放つ絶望感だけだった。

 

自分が此れ程迄に彼女を憎んでいたことに、今更、私はようやっと気付いたのだ。

彼女の柔らかな皮膚が弾け、内側から破裂して飛び散った赤黒い色彩が、

今もまだ、鮮やかに瞼の裏にこびりついているような気がする。

 

金網と鉄格子に覆われた陰鬱な小窓の向こうは場違いなほど晴れ晴れとしている。

人喰いの獣を閉じ込める檻としては相応しい、簡素で少し黴臭い獄の内、

私は一体何故こんなことになったのだろうと考えながら、一人灰色の天井を見上げていた。

 

ECMによって超能力を雁字搦めに押さえつけてある此処でなら、私程度の超度では能力が暴走する心配もない。

もう彼女を殺す心配も無い。すでに私がこの手でこの能力で、殺してしまったから。

 

温度の下がる眼は虚空を見つめ、ただ鼻先に今も残る幻惑の死臭を感じていた。

手に直接的な感触は残らずとも、感覚的な手応えは視覚聴覚と相俟って、

私に人殺しの自覚を注ぎ込み、じわりじわりと染み込ませていく。

 

誰か、助けて(殺して)ください。

私は粛々と虚空へ乞う。

踏み越えた境界線を戻ることはもうできない。かと云って、そのまま進むには些か心が弱すぎた。

 

私は確かに、彼女が憎かった。でも、ほんとうに殺したかったのかどうかは今でもわからない。

私はそれでも、確かに彼女を愛していたのだ。

異能を発現した私を疎む彼女が愛しくて、憎くて、

あのとき私の背中を押した彼女のひどい言葉は、私の世界を呆気無く断絶へと追い込んだ。

狭い牢のなかで精神を殺し続ける私は、延々と絶望の螺旋階段を常闇に向かって下り続けている。

 

ふいに、前触れもなく気配もなく、忽然と現れた黒い人影が、虚空から私をにやにやと見つめていた。

幻覚であろうかと私はぼんやりその白い面を見上げていると、彼はおもむろに口を開く。

 

「まだ若いのに随分と厭世的じゃないか、何をそんなに嘆いているんだい?」

 

はて、此処は私の小さな牢獄、他に人が居る筈も無いものを。

不思議と光を反射しない黒い眼を弓なりに、演説じみた言い回しをするこの男は、一体何なのだろう。

 

「僕かい?僕は通りすがりのただの超能力者(エスパー)さ。」

 

ふわりと浮いたまま道化のようにひょいと肩を竦めてみせ、

それでも反応を返さない私の態度に、少し拗ねたように眉を寄せた。

瞳に温度はないのに、感情表現だけは妙に豊かなのがどうにもアンバランスで、

まるで子供のようにも老人のようにも見える男だ、と茫洋とした頭で思考する。

すると、おやと眉を上げた彼はおかしそうににやにやした。

 

「ま、当たらずとも遠からずってところだね。君、なかなかいい勘してるぜ。」

 

まるで心を読んだようなことを云うのだなと思ったところで、

ああ、そうか、彼は超能力者だと自己申告していたなと気付く。

どうしてこんなところを通り掛かる道理があるものか、甚だ理解に苦しむが、

しかしすぐにどうでもいいかと思索をあっさり放棄する。

 

「ひどいな、もう少しくらい僕に興味を持ってくれたっていいんじゃないかい?

 僕はなかなかどうして君に興味が沸いてきたんだけどなぁ。」

 

ベッドに腰掛けて死んだ眼を向けていた私の眼前にふわりと降りたった黒衣の男は、

おもむろにこちらへ手を伸ばしてきたかと思うと、冷たく渇いた指先でするりと私の頬を撫でた。

何故か彼は一瞬顔を顰めたがすぐににこりと笑い、稚い子供にするようにゆるりと頭を撫でてくる。

まるで慈愛に浸されたような、不思議と懐かしみを含んだ優しい仕草だった。

 

「なぁ、。此処から、出たいかい?」

 

彼は教えていないはずの名前を柔らかく口ずさみ、罪を誘う蛇のように甘やかに尋ねる。

その問いに、私はすぐに答えを出せなかった。

 

死にたいわけでも此処に居たい訳でもないが、

信用も信頼も希望も居場所も、社会で人間らしく生きるのに必要なもの全てを失った私に、

此処を出て、一体、何処に行ける場所などあるだろう。

 

「だったら僕らのとこへ、パンドラへ来ればいい。」

 

パンドラ。…パンドラときたか。

なるほど、確かに犯罪者を犯罪者の組織に勧誘とは、さして不思議なことはないなと思う。

されど私にそんな場所で生きていく気力が、度胸があるものだろうか。

 

「心配は要らないさ、僕らは全ての超能力者の味方だからね。」

 

にっこり笑って、呼吸するように平然と嘘を吐き捨てた男を見上げながら、私は少しだけ仄暗く微笑んだ。

邪魔になるなら同じ超能力者さえ躊躇なく手にかけるくせに、白々しいことだ。

 

「くくっ、白々しいだなんて、心外だなぁ。」

 

当然のように冷徹を否定しない男が、さも可笑しそうに云う。

そんな彼の楽しそうに歪む眼をぼんやり眺めていると、

薄暗い部屋の中、浮かび上がるように白い掌が目の前に泰然と差し出される。

絶対の自信を掲げた、傲慢なまでに不敵な笑みをたたえ、彼は私に選択を迫った。

助けて(殺して)くださいとは確かに願いはしたものの、こんな形での救いは随分と想定外だ。

 

私は静かに死んだ微笑みを浮かべ、眼前に垂らされた蜘蛛の糸を掴む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

fin.

 

 

(13.6.9)

 

 

 

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