黄昏の檻 4
倦んでいる。私は非常に倦んでいた。
火影の言葉通り、私は彼が用意してくれたアパートの一室に滞在場所を移り、当分の間其処でお世話になることになった。
しかしまぁ移ったと云っても、実は最初に借りた宿の向かいだったりする。
あの部屋の窓から見た古いアパートだ。
当初はもっと小綺麗な来客用の滞在施設を勧められたが、生活するに支障が無い最低限でよいと辞退したりしつつ、
結局手近な所にと云う事になり向かいへ引っ越すことになった次第であった。
宿と同じ三階のその部屋は、けれどあの宿よりはずっと広い。ベッドルームとリビングルームに別れていて、
火影の厚意なのか部屋の仕様なのかは分からないが、一応最低限の家具や電化製品が備え付けてある。
岸辺邸で与えられていた部屋よりずっと広い。文句等あるはずもない。
ただまぁ、左隣の住人がどうもやや粗雑な質のようで、慌ただしく扉を開け閉めしたり、どたばたとした足音はよく聞こえて来るが。
我慢できない程ではないので其れは構わないのだが、もしその隣人が忍者なのだとしたらそれはどうよと突っ込みたくなる。
余計なお世話かと思い直し、スルーしておく。
最初こそ部屋で大人しくしていたのだが、如何せんすることが全く無い。驚く程無い。
蓄積したストレスを発散しようと思い切って里の中をふらふらと散歩してはみたが、
此の忍ばかりの住まう小さな里という集落にあっては、忍者でもない余所者は思ったよりも目立つらしい。
見た目よりも精神的な面で閉鎖的な土地なのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。
様々な色の混じる視線をじっとりと浴びた末に余計にストレスを溜め込むはめになり、
結局私はまた与えられた部屋で過ごす事になった。
しかし。
前述の通り、私は非常に倦んでいた。
ベッドの上で正座をして眉を顰め、どうにかもう少し胃に優しく人間らしい生活が出来ないかを考えていたのだが、
そもそもそんなことを考えている時点でナンセンスである。
はぁっ、と深く深く息を吐いて、ベッドに倒れ込んでそのまま突っ伏した。
此の里に来て一週間以上が経過したが、まだ黄金の太刀を取り返したと云う吉報はもたらされない。
長期戦を覚悟してはいたが、ただ、一つ誤算があるとすれば、
今の私にとって、思っていた以上に「一人で居る事」が辛いものであったという事実だ。
忙しく働いて何も考えずに居られた岸辺邸での生活が私にとってどれほどの救いであったかを思い知っていた。
元居た世界では私には存在の根拠があり、足跡があり、繋がりがあったが、此処には其れ等が一切無い。
気の置けない人間の一人も居ないなら、私は誰に笑いかければ良いのだろう。
誰が私を必要としてくれるだろう。存在の意味が分からなくなってゆく。
そうしてどんどんネガティヴになっていく思考を、主様ならきっと笑い飛ばし、
彼のいつも愛用している薔薇色の扇で私の頭をてしっと叩いてくれることだろう。
何馬鹿な事云ってるの、そんな暇があるならあたしにお茶を入れてちょうだい、と、笑いながら。
(主様に、馬鹿な子ねぇ、って笑い飛ばして欲しいと思うなんて、これ、私、相当キテるよね。)
苦笑いを零そうと思ったのだが、上手く笑えなくて心の苦みだけが胸に沁みてしまう。
このままでは本当に駄目になってしまいそうだと思い、ともすれば涙の滲みそうになる眼できっと虚空を睨み上げて起き上がる。
思えば、此れが初めてのホームシックってやつなのかもしれないと考えた自分を鼻で笑い、目的も無く家を飛び出した。
時刻は奇しくも黄昏。
世界は、小さな宿の一室から緋色の残光を見送ったあの時と、同じ空の色をしていた。
外に飛び出したものの、やはり視線を浴びるのはどうにも気が進まず、
人の居ない方へ居ない方へと黙々と歩いた果てに、見知らぬ場所に辿り着いた。
ああ、まぁ、要するに、迷った。
別に私は方向音痴な訳ではないのだが、ただ、部屋を飛び出した時は随分と投げやりな、
それでいてひどく切羽詰まった気持ちだったので、むしろ知らない場所に行ってしまいたかったのだ。
(言い訳ではない。断じて言い訳ではない。)
時計を見ていないので時間は分からないが、もうすっかり世界は宵闇に包まれて、場所柄もあってか、人の気配はない。
何処かはわからないが、鬱蒼と茂る森の縁、金網に囲まれただだっ広い敷地の傍であることは視認できたので、
恐らくは里の外れにある訓練場か何かかもしれない。ぽつりぽつりと点在する青白い街灯がより寂しさを際立たせているようだった。
群がる羽虫や蛾がちらちらと忙しなく揺れている。
見知らぬ土地の、人気の無い場所で、こんな暗い時刻に道に迷う等、普段の私なら正気の沙汰ではないと思うだろう。
実際困った事になったと自分の愚かさと現状に途方に暮れてはいるのだが、
今は其れより、もはやどうして自分が此処に居るのかわからなくなってしまった事の方が何より怖かった。
(人間はひとりじゃ生きられないって、あれ、本当だったんだなぁ。)
いつになく弱気な事を考えて息苦しくなり、金網に指を絡めて其処に額を寄せた。
湿った夜の空気と共に、少し傷んで所々錆をこぼす金網からは鉄のかおりが漂う。
丁度、温度を無くした血液とは、きっとこんなかおりがするのだろうと思うと、少し背筋がざわりと冷たくなる。
私が持ち込んだ依頼は盗品を取り返す事であるが、其の過程に於いて、誰かの血が流れる事もあるのだろう。
わかっている。考えないようにしていただけで、忍とは単に便利屋のように依頼をこなすだけではなくて、
もっと血腥く恐ろしいことさえやってのけてしまわねばならぬ仕事なのだと。
火影やイルカだって、きっと傷つけたり傷つけられたり殺したり殺されそうになったりしてきたのだ。
ずっと岸辺の屋敷で保護されながら安穏と過ごして来た私が思う以上に、此の世界は殺伐としていて、きっと、やさしくはない。
普段ならそういうものだと割り切って異世界を楽しむくらいにはいい性格をしていると自負する私だが、
今はどうにも気が滅入って仕方が無く、平生では考えられない程ぎりぎりの精神状態だった。
がしゃんっ、と、おもむろに金網を叩き付ける。
力任せに拳を打ち付けたはずみで、剥離した塗料が皮膚を引っかけてじわりと血が滲んだ。
痛かった。それでも、痛みを痛みとして感じる理由さえ朧げで、どうにかなりそうだった。
叩き付けたその手で金網に触れながら、それに沿ってふらふらと歩く。
今日は月が出ていない。泣いてしまいそうだ。しかし理性が見知らぬ場所で涙を垂らす屈辱を全力で拒絶する。
何かの「為」に泣くのはいいが、何かの「せい」で泣くのは、まっぴら御免だ。
不意に立ち止まり、ゆるゆると無数の星を縫い付けた夜空の天幕を見上げた其の時、
じゃり、と、小さく砂を踏む音が聞こえた気がして振り返ろうとしたのだが、一瞬わずかな風圧を感じたと思ったら、
次の瞬間、首筋にひやりとした金属が押し当てられるのを感じて、私はそのまま身体を強張らせて動きを止めた。
息を飲み、中途半端な体勢の侭に緊張が走る。
こんな状況に陥った事など一度も無いが、実際に身を以て体験すればすぐそれと分かった。
首筋にひたりと添えられているのは、紛れも無く、黒光りする鋭利な刃物。
気配を読む等という芸当は出来やしないが、希薄ながらも背後からは人間の温度のようなものを皮膚に感じられる気がする。
「あなた、此の里の、者ではありませんね。
…こんな時刻に、こんな場所で、何をしているのか。お聞かせ願えますね。」
すぐ耳元でささやかれた其の低い声は、小さく掠れてはいたけれど、やたらとはっきり私の鼓膜を揺らした。
こほっ、と空っぽの咳が背後の男からこぼれ落ちる。
身動き一つ出来ずに冷たく強張る身体に反して、後ろの彼は風邪でもひいているのだろうか、などと何処迄も見当外れな事を考えていた。
すっかり混乱して思考も動きも停止した私に追い討ちをかけるように、突き付けられた刃先に少し力が込められた。
皮膚が切れる程ではない、けれど、少しでも身動きすれば確実に喉を切り裂かれるような、絶妙な力加減で。
スプラッタな光景が厭でも頭に思い描かれてしまい、ざぁっと血の気が引き、目の前が真っ白に塗り潰されて目眩に襲われる。
無駄に発揮される自分の想像力の忌々しさよ。
ぐらりと地面が揺れ、脚から力が抜けて倒れそうになったが、
気付けば寸での所で背後に居た筈の男に背と腕を支えられ、地面に座り込む程度で済んだようだった。
視界に再び夜闇が戻ったのを感じて虚ろに瞬きをする。
そして、掴まれた腕と背に、暖かい人間の体温を感じた途端、私の頭の奥で何かが弾けとんだ。
座り込んだ膝にはたりと一滴の雨が降る。
一度決壊を許せばもう止める事等出来なくて、視線を膝に落としたまま、
私は自分の頬を伝う生理食塩水がぽたりぽたりと落ちて行くのをただやり過ごすしか無かった。
此れは何の為の涙だ。誰の為の。何故の。
「参りましたね…泣かせるつもりではなかったのですが…。」
また幾度か咳をこぼしながら、男が心底困ったような声音で小さく呟くのが聞こえた。
そして腕と背に触れていた温度が不意に離れて行ってしまったので、
滔々と表情が欠落したままに涙を流しながら、頭の隅っこで温もりの名残惜しさを思う。
知らない人間に触れられる事など平生ならひどく苦手に思うものなのに、今はどうして体温を欲するものか。
何だか無性にそんな自分の有様が可笑しく感じられて、未だ涙を降らせながらゆるゆると私は微笑んだ。
「…何故、笑っているのですか。」
私の斜め前から、怪訝そうな男の声が降って来る。
其処で初めて私は視線を上げ、私の近くにしゃがみ込んだ男の顔を視認した。
イルカや黒縁眼鏡の忍者たちが来ているのと同じ、草色のベストに、黒服、そして額宛。
違う所と云えば、背中に背負った、黒鞘の艶やかな刀くらいだろうか。
僅かな街灯に照らされた面は青白く見える。
顔の造作は悪く無いのだが、其れよりも夜の水面のような眼の下に刻み込まれている隈の方に眼を引かれる。
忍者、と呼ぶにしては、何だかひどく儚い印象を受ける男だった。
「な、んで、泣いてるのか、じぶんでもわからない、から、です。
…おかしい、でしょう。
おかしいんです。ほんとうに。」
相変わらず泣きながら笑う奇妙な私に、彼は困惑と戸惑いを瞳に滲ませながらも、
彼は彼の職務に忠実に、穏やかな声音でもう一度私にこんなところでなにをしていたのかと問う。
涙を吐き出して少し頭がすっきりとしてきたのか、少しはまともな返事を返せそうな気がして来たので、私は少しずつ口を開くことにした。
「結論から、いうと、迷子です。」
「………………迷子ですか。」
「迷子です。」
其の歳で?とでも続きそうな若干の呆れと胡乱さを込めた鸚鵡返しに、
半ば自棄になりながら更に鸚鵡返ししてみた。
「お兄さんは、忍者さんですよね。」
「見ての通りですよ。」
「では、多分忍者だと思います。」
「多分と云われずとも忍です。」
そう切り返した私に、彼もまた真面目に返答を寄越して来た。
やだ、この人面白い。私は真面目な顔をしつつも内心ちょっと楽しくなって来ていた。
いつの間にか勝手に溢れ出していた涙は収まりつつある。
「忍者さんは、風邪をひいているんですか?」
「…ただの癖です。」
彼はそう云ってまた一つ咳をした。
とりわけ表情は無いのだが、無表情と云う訳でも無く、何とも不思議に穏やかな人だ。そして律儀だ。
「あなたは何者ですか。見た所、忍でも里の者でも無いようですが。」
刃物を突き付けて詰問していた時よりも幾分声を和らげた、落ち着いた低音が尋ねる。
「私は忍者ではありませんが、所用により、今は此の里に滞在させて頂いてます。
きちんと許可も頂いてますから、火影殿に確認して下さって構いませんよ。
岸辺の使い、と云えば分かって頂けるとおもいます。」
岸辺、と主様の名を出した途端、彼は少し眼を見開いて一瞬とても無防備な、少し幼い表情をした。
そして其のすぐ後に苦く顔を顰めて、すっと頭を垂れた。
「…依頼主とは知らず、不躾な真似を致しました。申し訳ありません。」
「え…あ、ああ!いえ、あの、私は使用人で、ただの使いであって、直接の依頼主ではないんで、
あの、や、そんな、止めて頂いた方が、心臓にやさしいんですが…!!」
頭を下げた事はあっても下げられた事は無い私が、此の時、如何に狼狽したかは推して知るべし。
むしろ私が土下座しなきゃいけないような気になってしまうので切実に止めて欲しいと思いながら、
無理矢理ぎゅうぎゅうと彼の肩を押し戻したら、最大限の苦笑いをされた。心外である。
心外ついでに正直申告してみた。
「あ、でもものっすごい怖かったです。死ぬかとおもいました。若干おうちにかえりたいです。」
「…実は怒っていらっしゃいますよね。」
怒ってなどいないですよと首を横に振りながら、何だかそんな馬鹿馬鹿しい遣り取りに少し和んで、穏やかな気持ちで小さく微笑んだ。
ついでに笑顔で「忍者みたいでした!」と付け加えると、「『みたい』ではなく忍です。」と律儀に突っ込まれた。
夕暮れの中、耐えきれない気持ちで部屋を飛び出したあの酷く不安定だった心が、滑空する鳥のように緩やかに足場に着地する。
まったくもって穏やかではないこの忍の男との邂逅が、
少しだけ私を侵す孤独と不安を和らげてくれたような気がして、なんだかうれしかった。
(10.4.1)
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