黄昏の檻 3
翌日、まだ早朝とも云える時間に眼を覚ました私は、一瞬見覚えの無い天井を見上げたまま動きを止め、
しかしすぐに昨日迄の出来事を思い出して身体の力を抜いた。
そうか、此処は忍者屋敷、じゃなかった、木の葉隠れの里の宿だったと頷く。
当分の間、私の仕事は屋敷での雑用ではなく、「待て」と云うまるで犬の躾のような指示を守ること。
此の里で何をすればいいのか、とんと思いつかないが、下手に動き回って主様に迷惑の及ぶような事があっても不味いだろう、
私は一応は主様の代理と云う立場で此処に留まっているのだし、と思い直し、とりあえず当分は大人しくしていようとおもった。
することはなくとも、使用人生活で染み付いた身体の癖は継続中らしく、いつもと同じ時間に目が覚めてしまった。
二度寝する気分にもなれず結局そのまま起き出し、あくびを噛み殺しながら身形を整えて部屋を出ると、薄暗い階段を下りて一階に向かう。
私が借りている部屋は三階にあり、二階から四階迄が客室で、一階は食堂として機能していた。
ちらりと食堂を覗くと、宿泊客の為の営業は既に始まっているらしく、厨房からは忙しなく働く人の気配がある。
まだ夜が開けて間もない時間のせいか客は誰も居なかった。
見知らぬ人間と居合わせるよりは気楽だろうと思い、階段横の誰も居ない宿の受付を通り過ぎて食堂に入る事にした。
食堂のカウンターに近付くと、厨房にいた恰幅の良い女性がさっと振り返り、血色の良い顔でにっこり微笑んだ。
「いらっしゃい!早起きだねぇ。さ、何にしようか!」
その元気のよさに面食らって瞬きつつ、へらりと笑い返して簡単な朝食のセットを注文する。
一番隅っこのテーブルに座って待っていると、幾らも建たないうちに暖かそうな湯気の立った食事が運ばれて来た。
「ああ、そうそう、あんた、さんかい?」
「え、あ、はい、そうですが。」
不意に名前を言い当てられて困惑していると、彼女はポケットから取り出した一枚のメモ帳を私に差し出した。
首を傾げながらも差し出されるままに紙片を受け取ると、里の中心部にある建物に向かう地図のようだった。
昨日尋ねた受付処に程近い。
「昨夜遅くに火影様の使いが来てねぇ、今日の正午頃、火影様んとこにきてくれって伝言を頼まれてたんだよ。
それ、火影様のいらっしゃる建物までの地図ね!」
「そうでしたか、どうもありがとうございます。」
受け取った紙片を懐にしまい、軽く会釈をしながら礼を云う。
彼女は一つ豪快に微笑んで厨房へと戻って行った。なかなか気持ちの良いさっぱりとした人だ。
私の母親くらいの年齢だろうかと一瞬考え、苦笑して其の思考を振り払う。
一人きりの心細さからか、昨日からどうにも感傷的になってしまっていけない。
昨日の今日でいきなり此の里の長に呼び出しを食らうとは思っても見なかったので、驚きと困惑と不安の綯い交ぜになった気分ではあるが、
どうせ依頼が達成される迄は何もする事が無く、今日一日さえどう過ごそうか途方に暮れていた所だ、呼ばれる事に異存は無い。
火影と云う方がどのような人物なのかは知らないが、取り敢えずあまり怖く無い人なら良いのだがと考えながら朝食を咀嚼した。
食後、一度部屋に戻って出掛ける準備をし、随分と時間に余裕を持って宿を出る。
宿の中にいてもそわそわと何だか落ち着かない心地であるし、地図まで貰ったが万が一迷った時の為に早めに出ておこうと思ったからだ。
昼前の黄金色の陽光が眩しく、何処か長閑な空気が漂っている。
そして、やっぱり真昼間から堂々と出歩く忍者達が気になって気になってしょうがなかった。(だって、何処から突っ込めばいいの。)
草叢や夜闇になら姿を紛れさせるに都合が良いかもしれないが、昼間の大通りを普通に通行するにはあの忍装束は逆に目立っていた。
此の里に住んでいる人間のどの程度が非忍者なのだろう。それとも全員忍者もしくは元忍者なのだろうか。
しかしそうすると先程の宿兼食堂の従業員やそこらの商店の店員等も実は忍者だと云う事になる。それはないか。
考えれば考える程に段々訳が分からなくなって来るのでまぁいいかとあっさり考えを放棄した。
忍者だろうとなかろうと、私に危害や迷惑を及ぼすことがなければ全くもって問題無い。
適度な無関心と無責任な自己完結なら私は得意である。…褒められたことではないが。
くだらない事を考えながらほたほた歩く内に、思ったよりも早く目的地にたどり着いてしまった。
流石に昨日通ったばかりの道を間違える道理も無かったようである。
おとなうには些か早すぎるので周辺でどこか時間をつぶせる所は無いかと見回すが、
結局忍者の育成学校らしき場所の近くにある、広場のベンチに腰掛けてぼーっとするくらいしか出来なかった。
する事がありすぎて忙殺されるのもアレだが、全くすることが無く時間を持て余すのもどうにもいたたまれない。
学校らしき建物からは子供特有の甲高い声がざわざわと響いて来る。
時折教師らしき怒鳴り声も聞こえてくるので、忍者予備軍と云えど子供は子供なようだ。
それにしてもまあ元気の良いことだ。生徒も教師も。
そんな事を考えながら座って虚空を見つめていたが、実は、辺りを通り掛かる人々の視線はものすごく痛かった。
「昼間っからあんなとこでなにしてんだあの女」みたいな眼で見るのは止めて頂きたい。
自分だって昼間っから忍者やってるくせに!こっちだって好きでぼーっとしてるわけじゃないんだよ!とよっぽど主張したかったが、
そんな事をしても不審者のレッテルを上塗りするだけなので、自重する。
懐からあの懐中時計を取り出して時間を確かめる。
まだ少し早いが、そろそろゆっくりなら向かっても良い頃だろう。遅刻するよりはいい。
時間を守れない人間は信用されないものだと主様もおっしゃっていた。
主様の言葉を思い出しながら一度ぎゅっと懐中時計を握り締め、懐にしまう。
火影のいるという建物へ向かう角を曲がった時、同じように角の向こうからやってきた人物にぶつかり、
反射的に謝罪しながら相手を見上げた瞬間、私は思わず硬直した。
「あ、すみま………!!」
「…。いや、こちらこそすまない。急いでいたもので。」
ぶつかった感じから、私よりも随分背の高い、大柄な男性だという事は咄嗟に理解していたが、
その傷だらけの強面を見て思わず怯んだ私にあまり非は無いと思う。
正直めっちゃ怖い。顔が。
黒いロングコートを羽織ったいかついその男は、私のような人間からのリアクションにも慣れているようだ。
(そりゃ慣れる程怖がられもするだろう。子供泣く。絶対泣く。)
硬直しつつも失礼な事を考えながら、ぎくしゃくと改めてすみませんと会釈した。
急いでいると云った言葉通り、彼はそのまま足早に歩き去って行った。
(忍者っぽい、と云うよりは、どっちかってーと軍人っぽい人だったな。)
そんなこんなで動揺しつつも何とか目的地に辿り着き、入り口に待機していた黒縁眼鏡を掛けた忍者さんに呼び出された旨を告げると、
そのままいくらか階段を上って廊下の一番奥の部屋に案内された。此処が里長の部屋らしい。
「火影様、岸辺様の使いの者を連れて参りました。」
「ああ、入ってもらいなさい。」
案内してくれた眼鏡の忍者がノックとともに声を掛けると、中から少し嗄れた老人の声が入室を許可した。
促されて入室すれば、「火」の一字を掲げた笠をかぶった老人が机の向こうに腰掛け、燻る煙管の煙を揺らしていた。
一見、穏和そうな普通の老人である。しかし、それでいて全く隙が無いように感じる。
彼が木の葉隠れの里の長、火影なのであろう。
「長旅で疲れとるだろうに、ご足労願ってすまなんだな。」
「いいえ、とんでもございません。
お初にお目にかかります、わたくし、岸辺ノバラ様の代理で依頼書をお持ち致しました、と申しまする。
お目通り願えました事、恐悦至極に存じます、火影殿。」
主様の顔に泥を塗る事が無いよう、できるだけ恭しく丁寧に挨拶をすると、老人は目尻の皺を深くして微笑んだ。
そして、少し困ったように眉尻を下げて早速本題を切り出した。
「岸辺殿から事の顛末は聞いておるよ。
岸辺殿には懇意にして貰っとるし、儂等も木の葉の名に掛けて、全力で依頼を果たすつもりじゃ。
しかし、なかなか厄介でなぁ、…時間が掛かることは、覚悟してもらわねばならんじゃろう。」
やっぱりか。
危うくそう口走ってしまいそうになるのを寸での所で飲み込み、私は曖昧に笑って見せた。
こういう言い方をするからには、私が太刀を取り返す迄帰れないというその辺りの事情も知っているのだろう。
私の生温い反応を見て、火影もまた疲れたような、呆れたような表情をして溜め息を吐いた。
「…恐れながら、貴殿もご存知かと思いますが、わたくし、主より依頼が達成される迄帰る事まかりならぬとの命を受けております故、
もしも御許し頂けるならば、しばしこちらの里に滞在させて頂きたく存じます。」
もちろん、其れが叶わなければどこか別の集落に滞在するつもりだが、と云うような事を続けて云えば、
老人は暫し煙管を撫でて、ゆっくりと頷いた。
「もちろん此の里に滞在するのは一向に構わんよ、ゆっくりしていってくれればよい。
必要ならばこちらで一室用意しよう。…じゃがなぁ、先程も云うた通り…。」
「…時間が、掛かる、のですよね。」
困った顔をして言い淀んだ火影の言葉尻を繋げて、苦笑混じりに云ってみせれば、
そのニュアンスでこちらの気持ちを酌んでくれたらしく、彼もまた苦笑いをした。
此の里と懇意にしていると云うだけあって、里長もまた主様の困った性質をよくよくご存知のようだ。
「わたくしはあまり忍の仕事と云うのを存じ上げませんが、
しかしながら此度の依頼、そう易い事とも思っておりませぬ。
待つこともわたくしの仕事に御座います故、どうぞ御気になさらないで下さいませ。
御気遣い、心より感謝致します。」
「岸辺殿も、悪い方ではないんじゃがのぉ…。」
「ええ、悪い方では、無いんですが、ねぇ…。」
私と火影だけでなく、その場に控えていた眼鏡の忍者もまた同様に生温く微笑んで、部屋中が何とも云えないゆるい空気に包まれていた。
取り敢えず、里長が親切な御仁でよかったと思いつつ、先が思い遣られて小さく溜め息を吐いた。
(10.4.1)
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