黄昏の檻 20
忍者の護衛付きの旅なんて初めてだが、何とも妙な感じであるなぁと、少し釈然としない気持ちで冷たい土壁に凭れ掛かる。
祖国じゃ家族や友人と旅行に行く事はあっても、護衛付きで出掛ける事など、一般人である私には当然経験の無い話だ。
政府の要人じゃあるまいし、と、自分の現状を鑑みてはやはり何とも奇妙な感じがしていた。
太刀が戻って来た数時間後に逃げるように里を後にしてから黙々と歩き、往路で立ち寄ったのと同じ街にて、私達はその日の宿を取ることにした。
久々の遠出に疲れたのもあって、街を出歩く気分にもなれず、そのまま宿の一室の片隅で膝を抱えてぼぅっと天井を見上げる。
護衛忍者さんであるハヤテは、有事の際に即座に対応できるようにと隣の部屋で待機しているらしい。
何かあったら呼ぶようにと云われ、そんな慣れない状況にやや微妙な表情をした私を、彼は心無しか不思議そうに見ていた。
余談ながら、忍社会についての仕組みを知らない私には知る由もなかった事だが、此の現状は本当なら少し特殊とも云えるものだった。
そもそも通常であれば最低でも二人以上からなる小隊で以て任務にあたるものであるし、
特殊な事情がある場合を除いては、単独任務が行われることは実はそう多くない。
更に、私の護衛と云うCランクに値する任務を割り当てられるのは大抵の場合中忍や下忍であり、
通常Bランク以上の任務を割り当てられるのが妥当とされる特別上忍の名を戴くハヤテには、本来ならば少々役不足な任務だった。
もちろん、そんな事情を知らない私には、疑問に思う余地もなかった事なのだけれど。
其れは置いておくとして、ハヤテが此の任務についたのは本当に偶然であるようだ。
黙々と歩く私の斜め後ろから静かに随行するハヤテにそれとなく尋ねたところ、
私が火影の部屋を辞して後、偶然にも書類を携えて彼の元を訪れたハヤテが、ちょうどよいとばかりに白羽の矢をぶっ刺されたらしかった。
急な行動を取る私にも非はあるけれど、偶然自分の元を訪れた者にいきなりこんな任務を与える火影も火影だし、
おそらくは常のように平然と其れを受けたであろう、そんな忍者として優秀過ぎるハヤテもハヤテである。
全く以て今更な事ではあるが、つくづく、自分は奇妙な世界に迷い込んでしまったものだと思うと、感慨深い気分にすらなった。
けれど、それもこれも全ては現実に私の身に降り掛かった出来事であり、私はそんな奇妙な世界の直中で確かに生きて、存在していた。
其れを数奇と呼ばずして何と呼ぶべきか。
突然見知らぬ森に放り出され、獣に喰われかけ、奇妙な命の恩人に助けられ、その恩人に振り回され、
其の余波で忍者なる職業に就く変わり者達と出会い、けれどそんな生活も悪くない、なんて笑える程、それなりに仲良くなってしまっている。
元の世界に帰る事ができるならそうしたいと考える気持ちは今も変わらないが、
本当にそうなった時、私は今のように、きっぱりと元の世界に帰る事を選ぶことができるのだろうか。
(ああ…そうか、そりゃあ、無理だなぁ…。)
声を上げずに笑いをこぼし、私は何だか考える事自体が馬鹿らしくなって来る。
私は此処へ来て漸く、自分が案外、此の世界を気に入ってしまっていることに気付いた。
案外主様の暴挙も一概に否定できませんねぇなどと考えながら、ずるずると背の壁を伝って色褪せた畳に横たわる。
部屋の隅にぽつりと置かれた荷物と、其の傍らに立て掛けられた黒い布包みを見遣り、眼を細めた。
布の中で黄金色に艶めく美しいあの太刀が、それみたことかと私を笑っているような気がした。
全てが予定調和で、此の経過の凡てこそが「世界の意志」だと云うのなら、茶番が過ぎると中指を立てていたところだろう。
主様のこと、自分のこと、岸辺のお屋敷のことを考える。
そして、火影のこと、懐中時計のこと、ナルトやカカシやハヤテら里で出会った全ての人々の事を考える。
此の世界に来た当初は岸辺の屋敷が世界の全てだったし、主様が此の世界に存在する人間の全てだった。
だがもう私を囲い、守り、閉ざしていた檻は無い。
此の里が好きかと問うた火影の顔を思い出す。望みは言葉にしなければ叶わないと彼は云う。
あの老翁も伊達に長年火影をやってるわけではないな、と私はつくづく実感していたものだった。
「全部ハヤテさんのせいだ…。」
隣室にて咳いているであろう男の顔を思い浮かべながら、私はそんな小さな八つ当たりをして苦笑した。
起き上がってぐっと身体を伸ばせば、窓の向こうには夜色の天幕が何処迄も広がっている。
夕焼けを見逃したことを心の隅っこで残念に思いながらも、頭の中ではすでに明日の予定を考えていた。
翌日の早朝、早々に宿をチェックアウトして旅路を急ぐ事にした。
忍者であるハヤテが本気を出して移動すれば、きっと一日もあれば十分に目的地に辿り着けるのかもしれないけれど、
当然ながらあくまでも一般人極まりない私の足を基準にした速度によって移動しているので、
少し余裕を持った時間配分で考えておかなければ次に宿を取る予定の街に辿り着けなくなる。さすがに野宿は勘弁だ。
そうして今日もほたほたと歩く私と、其の斜め後ろを歩くハヤテ。
時折こほこほという咳と、かちりと刀の鳴る音がするのでかろうじて其の存在を認識しているが、
基本的にハヤテ本人は足音も無く非常に静かなものなので、何となく私はちらと後ろに視線を寄越し、時々眼で見て彼の姿を確認していた。
そんな事を何度目かにおこなった時、其の視線の先でハヤテがまるで堪えるのに失敗したかのようにくつりと笑ったのが見えた。
「…っ、すみません、つい…」
「……」
私の行動はどうせ気付かれているんだろうなとは思っていたが、笑われるとは思っていなかったので私は思わず少し憮然とする。
彼は少し笑って、黙って突然いなくなったりはしませんのでご安心下さい、と、やや見当違いな事を云う。
そんな事は別に心配していないと答えた。
だったら何なのだと云われたら、其れは其れで返事に窮するような気はしたが。
「…あの、出来れば、隣か前を歩いてもらえるとうれしいのですが。」
何となく気が散ってしょうがないとぼそぼそと呟くと、彼は何事も無かったかのようにわかりましたと云って私の隣を歩き始める。
釈然としない、何とも云えずもやもやするものを押し込めながら、護衛対象がこんなので申し訳ない、と私は心の中でだけ謝った。
暫く互いに沈黙を保ったまま歩き続けていたのだが、ふと、彼の先程の言葉を思い返して、あれ、と首を傾げた。
黙って突然いなくなったりはしない、とは、こっそり里を去ろうとした私に対する皮肉か何かだったのだろうか。
そんな疑問を正直にハヤテに問い掛けてみれば、あっさりとそんなことはないと返され、そうかと納得して口を閉じる。
けれど、一拍間を置いた後、ハヤテが一言、それにしたって気付くのが遅すぎないだろうか、と呟くので、
私は思わず、それはあなたにだけは云われたくない、と突っ込みを入れずにはいられなかった。
論を俟たず、どっちもどっちである。
「しかし、カカシさん達が知ったら、さぞ残念がるでしょうね…。」
静かにそう云って咳くハヤテの横顔を反射的に見上げたが、
けれど私は返事をする前に、何気なく其の視線を逸らすように前を向いた。
「…一生会えない訳では無いですよ。
私達は、同じ世界の、同じ時間で、同じ国に生きているんですから。」
「それは……。
けれど、再び会えるとも限りませんからね…。
忍とはそんなものです。」
厭なことを云うものだ、と云いたいのを飲み込み、私は少し顔を歪めた。
ハヤテの云っている事の意味が分からない程、私も無分別ではないつもりだ。
人は限りある時間を生きている。
結局の所、終わりが来るのが早いか遅いか、それだけの違いしか無いのだ。
私よりも生が早く終わる確率が高いところに、彼らは居るのだということ。
其れが分かっているからこそ、私はもうそれ以上、何を云う事も出来なくなってしまう。
「…さん、私は、責めているのではありませんよ。」
「それはちゃんとわかっていますよ、大丈夫です。」
そんなふうに彼はいつも妙な所で優しさを滲ませるので、
きみは卑怯だなぁと揶揄する事はせずに、私はとろりと困ったように笑った。
「私はとても狡い。
それでも、私は、自分の事を自分で決める為に、自分の頭で考えたいんです。
何を選んでも後悔するのはわかっているので、出来るだけ後悔が小さくて済むような、少しでもマシな選択をする為に。」
ハヤテは、例によって云うだけ云って素知らぬ顔をする私を横目に、貴方は意外と強かですね、などと云う。
此の世界にいたら厭でも強かにならざるを得なくなったのだよ、と考えながら私はへらりと笑って見せた。
岸辺邸に辿り着く迄、あと一日と半分。
残り時間はそう多くないけれど、たった一つ決断を下すには、それは十分な時間であるはずだ。
「それでは、此処でお別れです。」
其の台詞は、ハヤテの言葉としては少しだけ意外な気がして、私は曖昧にはたりと瞬き、其の言葉の意味を一拍遅れて嚥下した。
私の背後には岸辺邸の立派な門構えが聳え立ち、其の姿を以てして、ようやく私の役目の総てが此処に帰着する事を示していた。
細長い黒の布包みを抱いた両手に僅かに力を込め、私は出来る限りの感情を乗せて、ありがとうございました、と微笑んだ。
私は其れ以上の言葉を探しあぐねて口を噤む。
そうしてハヤテは、静かに私に背を向けて去って行く。
雑踏に消え行く其の後ろ姿を、ただ立ち尽くしたまま見送れば、
私は何故か、置いて行かれてしまったような気持ちになって、少し泣きたくなった。
「……またね、」
声になるかならないかくらいに微かな其の言葉は、誰の耳にも届かず、けれど、私の身体の中ではいつまでも残響が消えなかった。
カカシがいつも去り際に此の言葉を落として行く気持ちが、今ならよく理解できるような気がした。
小さく息を吐いてから聳え立つ門にさっと向き直り、門番のおじさんに扉を開けてもらう。
一年ぶりに其の敷居を越えれば、ああ、と、ひどく懐かしい気持ちに駆られて思わず苦笑いが零れた。
取りも直さずそのまま屋敷に上がると、出迎えに来てくれたらしい使用人頭の後藤さんの後を付いて歩き、主様の元に向かう。
どうやら直接自分で太刀を届けに来いと云う意味らしいと察し、この僅か数分の間に早くも二度目の苦笑いをする羽目になった。
主様の主様ぶりは健在であるようだ。
屋敷の奥の奥、最も豪奢な装飾と調度品に囲まれた一室に案内される。
其処が主様の部屋だ。
廊下の飾り棚に生けられた、一輪の大振りな薔薇の花から、懐かしい香りが漂って来る。
此の世界に来てからと云うもの、ずっとこの香りに満ちた屋敷の中でばたばたと慌ただしく日々を過ごして来たものだった。
当初はあまり薔薇の香りが好きではない為に少々の我慢が必要だった生活が、
鼻がすっかり慣れてしまって全く気にならなくなったのに気付いたのは、一体いつ頃の事だったろう。
扉の前に立てば、何だか意味も無く緊張しては、自然と背筋を伸ばしていた。
旅の荷を近くに居た別の使用人さんに預け、その目の前の扉をゆっくりと開いて入室する。
「えらく長いお遣いだったわねぇ、。」
後藤さんに続いて部屋に足を踏み入れ、黒い布に包まれた太刀を手にして恭しく拝礼をした顔を上げれば、
一年前と変わりなく、泰然とした様子で不敵に微笑む主様が其処にいた。
結論は、考えるまでもなくきっと最初から出ていた。
私は主様を真直ぐに見つめて微笑み、ゆっくりと口を開いた。
(10.4.1)
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