黄昏の檻 2
おなじ火の国であるとは云え、此処は広大な国土を有する大国である。
岸辺邸のある街から木の葉隠れの里までの道のりは少し遠い。通常なら徒歩で三日掛かる道程だ。
(まぁ私は四日掛かったけどな…!)
内心そんな台詞を半泣きで吐き捨てながらも歩を進める。
大雑把な地図を頼りに、行った事も無い場所へ、一人きりでの旅。
案の定、ちょいちょい迷った。
此の世界に来てから碌に外を出歩いた事も無い私の初めてのおつかいとしては、余りにもハードルが高いこと此の上無い。
予定よりも遅くなってしまって焦る気持ちはあったが、初めての一人旅は全てが新鮮だった。
途中宿を借りた宿場町や商業集落は興味深く、他は殆どが林道や、集落と集落を繋ぐ何も無い街道という行程ではあったが、
それでもとにかく、見るもの全てが私にとって物珍しい。
けれど何処に居ても自分が異邦人であるという感覚が拭いきれず、馴染み深くなったあの岸部邸に、少し帰りたくなったりもした。
馴染んだと思っていたのは、きっと此の世界にではなく、あの岸辺の屋敷での生活だったのだろうと、離れた今更になって思い知る。
しかしながら、どれほど帰りたかろうが、私は暫くは戻れそうに無い事を厭という程知っている。
『依頼が果たされる迄、あなた、帰って来ちゃ駄目よ。』
主様はそう仰った。
依頼とは岸辺邸の蔵から盗まれた黄金の太刀とやらを取り戻す事。
そして任務の遂行は依頼を受けた忍者さんの仕事だ。
此の世界に於ける忍者という職業の人々がどの程度の優秀さを誇っているのかはよく知らないが、
果たして一日や二日でさくさくと行方知れずの盗品を取り返す事ができるものだろうか。いや、できまい。
(一生帰れない、という可能性も、無い訳じゃないんだよねぇ…。)
主様の言葉は、絶対。
一度命じたからには、見つかりませんでしたと帰っても敷地にさえ入れてくれないだろう事は、経験上よくわかっていた。
返しても返しきれない大恩はあれど、どうにも難儀な主に仕えてしまったものだと云う想いは禁じ得なかった。
「そろそろ、この辺りの筈なんだけど、まだ着かな………!!」
独り言を呟きながら地図に落としていた視線をふと上げると、鬱蒼と続く森の奥に、突如巨大な門と壁が見えて面食らう。
扉には「あ」と「ん」の黒い筆文字がでかでかと描かれ、表面が些か風化してはいるが、どっしりとした巨大な門が聳え立つ。
門の上部には木の葉の様なマークと、その両側に「忍」と云う字ががっつりと彫り込まれていた。
其の向こうでは高さも大きさもそれぞれだが、何となく赤茶けた印象を受ける色彩の建物が密集している。
そして遠目からではわかりにくいが、其の門の両脇には忍者っぽい恰好をした門番らしき人影が二つ見えた。
「……忍んで、無いな。これは。」
初見の感想が其れだった。
どうしよう、何から突っ込めばいいのかしら、とつい咄嗟に考えてしまうあたり、脱力感が否めない。
取り敢えず目的地に辿り着けた事だけは厭でも理解できた。思っていたのとは大分趣きは違うが。
忍の隠れ里なる場所とはどんな所なのか、と尋ねた私に対して、行けば分かる、と仰った主様のお言葉に、今すごく納得している。
隠れ里、ね、うん、これは、あんま隠れてないわ。
四日間の張りつめていた緊張が一気に緩み掛けた事は推して知るべし。
目的地迄もう一息という所でどうにも進む気力が萎えてしまったが、此処で突っ立っていてもどうしようもない。
手にしていた地図を鞄に丁寧に畳んでしまい、一つ息を吐いて気を取り直したように歩みを再開した。
懐に入れてある懐中時計に服の上からそっと触れて感触を確かめる。
大丈夫、私はやれる、とおまじないのように唱えて、無理矢理小さく口角を上げた。
門を通過する事はもっと難しいかと思いきや、主様に持たされた身分証明書代わりの木札を見せると、
意外にもすんなり通されてしまったので少し拍子抜けしてしまう。
流石に門番として立っていた二人の忍は間近で見るとどこか普通の人間とは違う、威圧感のようなものを感じて少し怖かったのだが、
こちらのそんな緊張に気付いたのか、彼らは少し笑い、依頼受付処への道順を丁寧に教えてくれた。
親切な忍者さんでよかった、などと随分見当違いな事を考えながら、
教えてもらった道を行きつつ、挙動不審にならない程度に里の中を眺めながら歩を進める。
門を見て初っ端から面食らい、一歩足を踏み入れていきなり土産物屋があったことに脱力してしまったが、
里の中に入ったら入ったでまた一層忍者の隠れ里だと云う事を忘れそうになる。
(ていうか土産物って…テーマパークかよ!リアル過ぎて笑えないよ!)
すれ違う人間は皆忍者らしい身形をしているのだが、其れを除けば普通の、岸辺邸のある街とそう変わらないように見えた。
少しごちゃごちゃとしていて、犇めくように立てられた建物は、何処か無秩序な印象を受けた。
民家があり、商店があり、学校らしき建物や病院らしき建物、広場や公園がある。
当たり前の生活が営まれているのだと思い、自分が忍者と云うものをまるで別の生き物か何かのように考えていた事に気付く。
考えを改めた所で、再び思う。
(うん、やっぱり、全然忍んでないよね。)
どうしても其処が気になる私だった。
頼りない足取りでよろよろと教えてもらった道を行き辿り着いた受付処は、やたら広く物が少ないので閑散とした印象だった。
例えるなら公民館とか、市役所のロビーとか、そんな雰囲気であるように思われた。
そう大勢の人間が出入りしている訳ではないが、それなりに目的を持った人間がそれぞれの用事を済ますべく出入りしている。
その大半は忍装束に身を包んでいるらしい者達だったが、明らかに忍びではないような、
私のように依頼を持ち込む者、達成された依頼に対する報酬を支払う者がいて、苦情だの御礼だのの声もまた混じり合っている。
何処の世界のどんな職業でも、人間が人間を相手に仕事をする限りは、負う苦労に大差は無いようだ。
入り口付近で何時迄も人間ウォッチングをしていても仕方が無いので、奥の受付らしい所へ向かう。
きゅぅ、と軋む板張りの床は、鶯張りと云う訳ではなく、単に老朽化故のようだった。ざらざらとした床板の表面が靴裏を引っ掻く。
繋げて置かれた長机の全面に「任務受付はこちらまで」と大きな手書きの文字で案内されれば、厭でも其処が受付だと分かる。
そして余談だが、天井からは「皆さんガンバ」と書かれたものすごく緩い貼り紙が垂らされていた。
…緩い。緩過ぎる。
逆に気力を殺がれるので勘弁して欲しいと生温い気持ちになる。
受付には椅子に座って訪問者への応対をする忍者らしき者が数人居た。
額宛と云うのだろうか、内に渦を描く木の葉の図形が彫り込まれたそれを付け、黒服の上に草色のベストを身に付けている。
どうやらそれが一応の忍装束としての正装らしいと見当をつけ、
町中で出会った派手な私服を着た小さな忍者達を思い出して内心苦笑した。
私が受付に向かって里の中を歩いていた頃、それは丁度忍者の育成学校の終業時間と重なっていたらしく、
桃色や橙色や黄色、水色、青色など、色とりどりの服を着た小さな少年少女たちがぱたぱたと駆け回り、戯れ合いながら帰路についていた。
ただ、元の世界の小学生と違うのは、其の腰元に皆似たようなポーチを身に付け、大腿部には飛び道具を備えていること。
其れを見て、ああ、こんな小さな子供達も「忍者」なのか、と思うと、何とも云えない気持ちになる。
頭を過ったそんな考えを振り払いながら、受付の前に立つ。取り敢えず今は他人の子供より自分の仕事だ。
余談だが、声を掛けるにあたっては、一番人当たりが良さそうに見える忍者を選んでみた。
「すみません、わたくし、岸辺ノバラ様の代理で参りましたと申します。
依頼の受付は、こちらでよろしゅうございますか。」
「あ、はい!岸辺様ですね、火影様から話は伺ってますよ。
それでは、依頼書を御願いします。」
私が依頼を持ってくる事は、あらかじめ主様から連絡が寄越されていたようだ。
…え、じゃあそもそも私要らなく無い?、と思わないでも無いが、其処は考えない事にした。
主様の言葉は、ぜったい、なのである。
声を掛けた忍者の男は、鼻の上に大きく一文字の傷跡を残していたが、けれどそれを気にさせない、人の良さそうな笑みを浮かべている。
なるべく怖くないソフトな人をと此の男を選んだが、どうやら正解だったようだ。
こっそり安堵しつつも鞄の奥から細長い桐箱を取り出し、其の中に納められていた薔薇色の巻物を手渡す。
此の薔薇色の巻物と云うのが、主様のトレードマークのような色なのだそうだ。
さすがは美しいものをこよなく愛するノバラ様である。勘弁してくれ。
「はい、確かに承りました。それでは此処に署名をおねがいできますか。」
そう云うと忍者は依頼の受け取り確認書のような紙を差し出し、一番下の空欄を指差す。
其の左の欄には、「受付担当者:うみのイルカ」と記入されていた。
…安直な名前だな、なんて、此の世界に来てからは既に考えるのを止めていたことは云う迄もない。
主様なんて岸辺に咲く薔薇だものな。主様らしい禍々し…いや、神々しい名である。
手渡された細筆に墨を含ませ、細く小さな文字で古屋ヒビキと記入する。筆という筆記具にはまだまだ馴染めない。
確認書の控えを受け取り、依頼書を入れていた桐箱に代わりに納めて蓋をする。
あとは依頼が達成された後、黄金の太刀と共に岸辺邸に帰還するだけ、なの、だが。
一連の業務を終え、そのまま私を見送る気でいたらしいその受付忍者、イルカは、
少々苦い表情を隠しきれない様子でなかなか立ち去らぬ私を見て少し不思議そうな顔をした。
主様は依頼の事に関しては先触れを寄越していたが、私に帰って来るなと云った旨に関してはノータッチだったらしい。
(自力でなんとかしろってか…!)
何時迄掛かるかどうかわからない依頼の完遂を待ち続けながら、それまで見知らぬ地で一人でなんとかしろとは、非情な事を云う。
旅費は十分な額を頂いているとは云え、此処はそういう問題でもあるまいに。
どこまでも精神的スパルタ教育である。泣きそう。がっくりと膝をついて項垂れたい気分だった。
溜め息を押し殺し、渋々私は口を開いた。
「…あの、此の辺りに宿とか、ありますか。」
結果的に云えば一応宿はあった。
忍者の隠れ里でも宿泊可能なんだ、と云う、此の世界での要らない知識が増えた瞬間である。
まぁ、よくよく考えれば依頼をしに来る人の皆が皆、日帰りできる訳では無いだろうし。
そう云えば主様も此の里とは長年懇意にしていると聞く。そんなふうに国内だけでなく他国や他里からの賓客も来たりするんだろう。
忍の隠れ里だけに、お忍びで…いや、やめておこう。自分のぐだぐだな思考回路に心底がっかりする。わ、私は疲れているんだ。
宿の有無を尋ねたときにイルカにきょとんとした顔をされた時はどうしようかと思ったが、
彼はすぐに気を取り直して朗らかに微笑み、できればそこそこ安い宿なら尚いいのだが、と云う私の要望も踏まえ、
いらない書類の切れ端に宿迄の地図を書いてくれた。
予約も無しに飛び込みでの利用ではあったが、部屋が空いていて本当に良かった。野宿は勘弁願いたいものである。
部屋を借りた宿は、里の中心から外れた住宅街の多い場所に建つ、四階程の高さの建物で、
両隣は小間物屋と八百屋に挟まれ、そう広くも無い道路を挟んだ向かい側は小さな古いアパートになっているらしかった。
古い、とは云っても、比べるならむしろ此の宿の方が古そうだ。
七畳程の小さな部屋の隅に膝を抱えて座り込み、日焼けして色褪せた畳の敷かれた殺風景な部屋を眺めて息を吐く。
荷物を詰め込んだ大きな鞄を隣りに引き寄せてくっつき、取り出した懐中時計を握り締めながら膝に顔を埋めた。
(しんどいな…。)
四日も歩き通しだったせいで脚は痛むし、重い荷物を背負っていた肩がぎしぎしと軋む。使い過ぎた眼の奥がきゅうっと痛んだ。
知らない部屋の匂いと、馴染みの無い職業に就く見知らぬ人々、よそよそしい顔の見知らぬ土地。
一つ仕事を成し遂げて息をつけば、こちらの世界に来て初めて訪れた一人きりの静かな時間に少し脚が竦む。
主様の屋敷で働き始めた当初も似たような状況ではあったが、あの時はしんみりする暇もないくらい日々の仕事に忙殺されていた。
夜は疲れ果てて夢も見ない程深く眠り、早朝から夜まで慌ただしく仕事に明け暮れ、主様の気遣いに感謝し、
同じくらい主様の横暴に振り回され、笑ったり困惑したり怒ったりしながら使用人仲間達と過ごしていた。
顔を上げてみれば、窓枠の模様に区切られた緋色の光が畳と壁を鮮烈に染めていた。
もうそんな時間だったかと空を硝子越しに見上げ、眼を細める。
緋色から菫色、菫色から群青、群青から闇色へ。移り行く色彩は止め処なく空を染め変えてゆく。
窓の前に立ち尽くしてぼうっと外を眺めやれば、それはまるで永遠の夜に私を閉じ込めんとする黄昏の檻のようだった。
(10.4.1)
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