黄昏の檻 15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハヤテと少し気になる別れ方をしたその翌日、残留する灰鼠色の雲を千切った青い空は、

其の隙間から、まるで天より差し伸べられたきざはしのような光の帯を降り注ぐ。

今朝早くになってようやく雨が上がり、ぬかるんだ地面は少しずつ乾き始める。

 

昨日暇だった反動からか、今日はやけに一日が目紛しく過ぎてゆくので、

忙しく動き回りながらもサトさんとふと眼が合ったとき、思わず二人して苦笑してしまった。

いろいろと脳裡に浮かぶ疑問や不安を振り払うように仕事に専念していたが、

それでも今日は姿を見掛けなかったハヤテが少し気に掛かってしまう。

 

ハヤテにしろ他の知り合いにしろ、別に毎日来る訳ではない。

時折思い出したように間を空けて訪れたり、二、三日続けて来たかと思えば、二週間以上姿を見ないなんて事もある。

今日姿を見なかったからと云って不思議な事ではないのだが、もやもやとした気持ちは依然晴れないままだった。

 

彼が昨日問いかけて止めてしまった事も気になった。

「あの時」とは、里外れの演習場の傍での事を指しているのだろうとは気付いていた。

思えば、それももう随分と昔の出来事のように感じている。

数ヶ月という月日は、長いと云うべきか、短いと云うべきか。

 

 

 

 

「お疲れ様でした。お先に失礼します。」

 

日暮れ頃、就業時間になったので厨房に居る二人に声を掛けた。

外を見遣れば、昨日の天気を世界ごと塗り替えるかのような、鬱金色の夕空が里を染めて輝いていた。

其の美しさに眼を奪われながら店を出ると、さん、と呼び止められた。

 

店の出入り口のすぐ傍に立っていたのは、少々久し振りに会うカカシだった。

彼の色素の薄い髪が陽に照らされて、きらきらと金色に光るのが美しいと思った。

そして、私を見下ろすカカシの笑っているようで笑っていない表情に少し違和感を感じながらも、

気のせいだろうと思い、当たり障りの無い挨拶とともに笑みを向ける。

 

「今から帰り?」

 

「はい。あの…」

 

「ちょっと、話があるんだけど、いいかな?」

 

何だろう、この違和感は。

カカシはいつもと全く変わりない飄々とした様子で、のんびりとそう云ったにも関わらず、

何処か否と云わせない強い音を伴っているような気がして、私は無意識の内に小さく一歩後ろに下がっていた。

譫言のように小さくいいですよと呟いて返せば、そんな私の少し強張った表情を見て、カカシは眼を細めた。

 

そのまま黙って歩き出したカカシの斜め後ろを追って歩き出す。

下を向いて歩きながら、水たまりに映る緋色の太陽を見つめて眩しさに眼を眇めた。

 

カカシと一緒に歩けば、いつもなら会話が殆ど途切れる事はない。

彼は話すのも聞くのも上手なので、私から上手く話題を引き出しては、

其れを素晴らしい手際でもって、さりげなく会話という形式に仕立て上げてくれる。

其の事を考えれば、今こうして黙って彼の後ろを歩いているのがあまりに異質な出来事のように思われて、

昨日からずっと降り積もってゆく一方の、私の中の不穏さを駆り立てていた。

 

 

 

そう長く歩かないうちに、彼が何処に行こうとしているのかに気付いた。

向かうのは昨日訪れたばかりの場所。

家路を急ぐ子供達の波に逆らうように向かう、その公園。

さらさらと揺れる槙の木が静かに佇む奥まった其の場所は、まるで世界から切り取ったように静かだった。

 

どうしてカカシは他でもない此処へやって来たのだろうと戸惑う私をよそに、

カカシはゆっくりと私が昨日座っていたベンチに腰を下ろす。そして、立ち尽くす私ににこりと笑いかけ、座るよう促した。

何故かそっちへ行きたく無いと訴える不規則な鼓動を持て余したまま、のろのろと座る。

昨日ハヤテがそうしたように、カカシから少し間を空けて。

 

「話、とは、なんでしょうか。」

 

膝に置いた手を少し握り締めて、地面を見つめながら先に切り出す。

カカシもまた遠くを眺めやり、朱色に移ろう景色に視線を溶かす。

 

「ま、そんなに硬くならないでよ。

 俺はただ、本当のことが聞ければそれでいいんだ。」

 

そうして、カカシはぽつりと、先に云っておくよ、ごめんねぇ、と、聞き取れるかどうかと云うくらい小さく呟いた。

昨日のハヤテと同じ事を云う。同じ場所で、同じ相手に向かって、何故そんな、同じ台詞を。

 

「カカシさん!」

 

其の時、突然カカシを呼ぶ声がして、私は反射的にそちらに視線を上げる。

カカシはまるで其の声の主の訪れをあらかじめ知っていたかのように黙って微笑んでいた。

 

「…ハヤテさん、」

 

初めて耳にした彼らしからぬ大きな声に面食らって、私達の正面に突如として現れた彼の名を呼べば、

ちらと私に向けた視線を気まずそうにさっと逸らして、カカシにもの問いた気な眼を向ける。

暫くじっと互いを見遣った後、先に苦い表情で視線を逸らしたのは、はやりハヤテの方だった。

 

何が起こっているのか状況が飲み込めない私がただ困惑に瞬きを繰り返すのを前に、

ハヤテは黙って傍の壁に凭れかかり、腕を組んでそのままじっと眼を伏せた。

カカシが私の名を呼ぶので、彼に顔を向ける。

 

「気にしないでいいよ。

 そーだねぇ、昨日の続き、みたいなもんかな。」

 

表情の無いハヤテは身じろぎもせず、黙って私達の遣り取りを聞いている。

どうして昨日の事をカカシが知っているのだろうと思い、其の疑問を口にしようとした所で、そうか、と気付く。

昨日、突然ハヤテが何かに気付いたように虚空を見上げて眉を顰めたのは、視界の外にいたカカシの存在に気付いたからなのかと思い至る。

忍者の感覚とは常人とは違うのだな、と頭の隅で暢気な事を考えた。

 

「ねぇ、さん、本当のことを教えてくれないか。」

 

彼らは一体何を指して「本当」と定義するのだろう。基準次第では、私など存在ごと嘘になってしまうのに。

そう考えて、つまりはそういう事を尋ねられているのだとようやく質問の意図に気付いた。

口を開くのは、とても気が重かった。言葉が胸に引っかかり、心臓に癒着して上手く取り出せない。

 

何を語ればいいと云うの。

存在の前提が「嘘」で成り立つ私の紡いだ言葉が、どうすれば「本当」になるの。

 

「君は一体誰なんだい?」

 

私は一体誰なの。

そんなの私が一番世界に問いたかった台詞じゃないか。

私は、なんとなくカカシを苦手だと感じていた理由が、いまやっと本当の意味で分かったような気がした。

第六感とか虫の知らせとか、何か、そういう不確かな類いのものが、こういう結末を予知していたんだろうか。

 

ぼんやりと表情の無いハヤテを見上げ、そしてカカシを見つめる。

カカシは少し寂しそうな、残念そうな色の眼をして、けれど静かに微笑んでいた。

私と彼らを隔てている、この近くて遠い壁の向こう側で、彼らは何をおもうのだろう。

 

「ずっと、さんには小さな違和感を感じていたんだよ。」

 

彼らは私に裏切られたと感じているだろうか。

けれど裏切るには、先に信頼と云う前提条件が必要だ。

断言できる、裏切る事が出来る程の信頼を、私が得たことは、きっと一度だってなかった。

そう云う意味では、彼らを裏切らずに済んでよかったと思った。

 

「確証も何もなかった。けど、小さな綻びは、どうしたって見えてくる。」

 

どうしようもなく深い深い沼の底に沈んで行く心が、静かに窒息してゆく。

だのに何だか不思議と息苦しくなる事に安堵していた。

 

「履歴書、悪いけど見せてもらったよ。」

 

静かにカカシから視線を外して、私のあいした美しい空を眺める。

何だか少し泣きたくなって、少し寒いな、とおもう。

 

「いろいろ調べたけど、何処にも無いんだよ。

 忍の情報収集能力を尽くしても、君の出自は明らかにはならなかった。」

 

何かの「為」に泣くのはいいが、何かの「せい」で泣くのは、まっぴら御免だ。

けれど、泣く理由もわからないのに涙だけ流れるのなら、私は一体、どうすればよかったのか。

 

さん、君は、一体誰なのかな。」

 

菫色の滲む夕景は恐ろしい程美しく、私を檻に閉じ込めた。

いつだって、其れは黄昏色をしているのに。

 

 

「…私は存在しません。」

 

淡々と云い、泣きそうな顔をしながら私は笑う。

どう云う意味、とカカシが少し声を低くして問うた。

 

 

 

(大丈夫。 世界は私を愛さない。)

 

 

 

「言葉通りの意味です。

 最初から、そして今も、私はこの世界には存在していないのです。

 きっと私はあの時、獣の糧となる為だけにあの森にいたのでしょう。

 それが世界の意志だった。

 主様は、きっと世界の意志を、受け取り損ねてしまったのですね。

 ……私と此の世界とを、隔てている壁があるんですよ。

 けれど、其れは壁などではなく、本当は私を閉じ込める檻なんだと、知っています。

 命が先なのか、存在が先なのか…。

 どちらにしろ、私は、最初から無かったのです。」

 

重ねた小さな偽称は私を何処へ連れてゆくだろう。

築き上げるのは時間が掛かる、けれど、崩れるのはほんの刹那の出来事だ。

 

 

「……ならば、何故泣いたのですか。」

 

 

小さく押し殺した咳と共に、ずっと身動き一つせず黙っていたハヤテが静かに問いかけた。

ささやくような、けれどはっきりと鼓膜を震わせる彼の落ち着いた声に、また心臓が不規則に跳ねた。

俯いている私の前にゆっくりと歩み出て跪き、私を凪いだ眼で見上げる。

 

 

「存在しない人間が泣きますか。笑いますか。

 私は確かに貴方に触れることができる。

 貴方は、その私をも否定するおつもりですか。」

 

 

ハヤテは淀みの無い言葉で私を縫い止め、私にその温かな手を伸ばす。

身動きが出来ない私は除ける事も叶わず、ハヤテの指が私の目元をゆるりと風のようにかすかに撫でた。

 

 

ああ、どうして、この人は

 

 

「…っ…」

 

声にならない声が胸を突き破るように零れていく。

どうしようもなく喉の奥が痛くて熱くて、滲んではたりと溢れ出た涙が、止め処なく頬を伝い落ちて行った。

くるしくてくるしくて、声を上げる事もできなくて、ただ息を詰まらせながら、涙を流す。

暖かい指が、其れを柔らかく拭った。

滲む視界の向こうで、ハヤテがささやかに微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

ハヤテがその檻を開けた。

鍵など、最初から掛かっていなかったと彼は云う。

 

私に温度を教え、涙の水面に夜の色を注ぎこむ。

 

 

 

 

 

彼は、「世界」だ。

 

「世界」が、いま、わたしにふれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

(10.4.1)

 

 

 

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