黄昏の檻 14

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

食堂で働く生活にも大分慣れ、そこそこ安定して労働の対価を得られるようになった頃、

気付けば私はまるでこの里の住人であるかのような生活をしている事にふと我に返り、少し途方に暮れた。

 

ずっと火影の厚意にて無償で借りていたアパートの家賃を自分で負担させてもらうようになり、

至って普通の里人であるかのような振る舞いをする自分に、本当は最初から違和感がつきまとっているのは分かっている。

私ははりぼての舞台装置の直中で、観客さえいないのに、通行人の役を演じ続けている。

はりぼて、とは、もちろんこの世界の様相の事ではなく、己の背景。

 

この世界はこの世界として存在の確立されたものであり、揺るがない。

けれど私はその中に紛れ込んだ異物なのだ。

そしてどうあっても私はこの世界のものにもなれないし、この世界と自分を隔てる硝子の壁を壊せないし越えられない。

それはさながら善悪を越えた真理にも似ていて、私は其れを当然のものとして、ただ「こちら側」から動こうとはしなかった。

 

けれど時々、そんな立ち位置を忘れてしまいそうになる。

随分と増えたこの里での知り合い達は、毎日のように誰かしらが私に声を掛けるし、雇い主夫婦は私に良くしてくれる。

岸辺邸にいた頃もそうだ、主様も私を始めから其処にいたように扱うし、使用人仲間ともそれなりに仲良くやっていた。

 

そして私と世界との境界線を忘れて向こう側へ踏み出しかけた時、それ以上進めない自分に気付いて、思い出すのだ。

私はこの世界のものにはなれない。

この世界の「かみさま」は私を愛すことも憎むこともしてくれない。

ああ、そうか、全てはなかったことにされてしまうのだ、と私はその度に諦めて、向こう側の世界を眺める傍観者に戻る。

 

窓枠に凭れ掛かりながら、ああ、おかしいな、と私は少し疲れて笑った。

今日は雨が降るらしく、上空を覆い隠すような深い鈍色の雲がしっとりと眼を舐める。

朝からひどく気怠いものだと思いながら、出掛ける支度を再開した。

 

何だか今日はとても外に出たく無いと云う、不安のようなものが肺よりももっと深く呼吸の内側に淀んでいたが、

そんな不確定なものを理由に自ら望んで就いた仕事を休む訳にも行かない。

華奢な柄の赤い傘を持って部屋を出た。

誰にも会いたく無いような、誰かに会いたいような矛盾は、空から零れ始めた飛礫の前に押し流されて行った。

 

 

 

 

 

 

 

雨の匂いは里を覆い、朝方から降り続く雨は激しさを増しこそすれ、止む気配はどうにも無さそうだ。

普段なら正午にもなればほぼ全ての席が埋まってしまうというのに、今日はまだようやく半分埋まったかどうかという状態だ。

しかもその内の幾らかの人々は、食事をしにくるというよりは、降り注ぐ雨滴に辟易して避難がてらに入店して来たようである。

近くの川の堤防を補強しに行ってるらしいとか、湿気で髪型がきまらないとか、自宅が雨漏りして困っているだとか、

天気に関連した話題ばかりがぼそぼそと聞こえて来る客席を見渡して、サトさんが溜め息を吐く。

 

「全く、辛気くさいったらないねぇ。」

 

「こればかりは、どうにもなりませんね。でも明日の朝には止むようですよ。」

 

店の奥でそんな世間話を時折交わしつつ、結局其れ以上客足は増えないままに、

青白い蛍光灯の頼りない光の中、気付けば閑散とした店内は雨音だけがざらざらと跳ね回っている。

もう今日は仕事にならないから帰ってもいいよとサトさんが呆れ笑いで云うので、

私もひとつ笑い返して其の言葉に甘えさせてもらう事にした。

 

いつもよりも随分と早い上がりだが、こうも咽び泣く空の下では寄り道する気分にもなれない。

けれど家に帰ってしまえばもう部屋から出る事が出来ないような気がして、帰路を躊躇った。

少し立ち止まって、私はいつか時間を潰すのに利用した事のある、アカデミー近くの公園へと足を向けた。

少し奥まった所に、背の高い槙の木の傍、三方を壁で囲われた屋根付きの休憩スペースがあったはずだと記憶をたぐり寄せながら。

 

 

 

雨の日に外を出歩くのが億劫なのは一般人も忍者も関係ないらしく、仕事中と思しき者以外はあまり見掛けない。

公園など尚更其の傾向が顕著に現れるのも必然、駆け回る子供達も、其れを見守る母親達も今はどこにも見られない。

サトさんの云った辛気くさいとの言葉が、自然とテンションの下がっている自分自身にそのまま当てはまっていて苦笑する。

別に雨は嫌いじゃないんだがなぁと、ざぁざぁと水が地面を打つ音に紛れ込ませるように小さく呟いた。

 

屋根の下に入って赤い傘を閉じれば、ぼたぼたと傘から水が滴って行く。

かろうじて濡れていないベンチの隅っこにぺたりと腰掛け、壁に傘を立て掛けた。

雨音の止め処なく、止め処なく。冷えて強張る手を屋根の外に差し出して、其の月白色の淡い飛礫に触れる。

掌に零れてくるそれは、体温を蝕むように優しく冷淡に手首を伝って流れ行く。

 

濡れた手から水滴を払い落としていると、公園の傍の通りを、黒い人影がきょろきょろと辺りを見回しながら歩いてきた。

靄に少しぼやける黒と草色を見るに忍者である事にはすぐに気付いたが、黒い傘を差すその人影は、私の知っている人のようだ。

仕事中だろうかと考えながら私が其の姿をじっと見つめていると、公園のこんな奥まった薄暗い場所にいるにも関わらず、

その人はすぐに私の存在に気付いたようで、今度はまっすぐにこちらを目指して少し早足で向かって来る。

 

その常に無い様子を少し訝しく思いながら、ぱしゃりと泥の跳ねるのも構わず、

あっという間に近く迄やってきた彼、月光ハヤテを、私は身動きもせずにただ見つめながら呟いた。

 

 

「ハヤテさん…?」

 

 

平生ならば穏やかで殆ど動じる事の無いその表情は、何故か少し焦っているようにも見えて、やや鬼気迫るような様子に戸惑った。

彼が目の前に立ち止まって、そんな表情で私を真直ぐに見下ろした時、挨拶をしようとした唇は何故か言葉を紡げなかった。

私は彼とそれほど親しい訳でもないが、しかし、今目の前に居る彼は、本当にハヤテらしくも無い。

こんにちは、とも、どうかしたのですか、とも云えないまま、やけに切実な色をしたハヤテの眼を困惑しながら見つめ返す。

 

 

一瞬だったのか数分だったのか、やがてハヤテは疲れたように片手でゆるりと眼元を覆い、小さく溜め息を吐いた。

そうして何事も無かったかのように、隣、いいですか、といつもの落ち着いた声音で私に尋ねながらも、

言葉に詰まったこちらの返答を待たずに、傘を閉じて私の隣に少し間を空けて静かに座り込んだ。

 

「…あの、大丈夫ですか?」

 

何故か彼が酷く疲れているように見えたので、躊躇しながらも小さく問うと、

ハヤテは少し眼を伏せて、膝の上で指を組む自分の手に視線を落としながら、静かに答えた。

 

「大丈夫です、何でもありません…。」

 

傘を差していたにもかかわらず、彼は少し毛先から水滴を滴らせていた。

よくよく見れば腕や足元も随分と濡れ、跳ねた泥が靴を汚している。

この雨の中、一体何が彼をそんなふうになる迄歩き回らせていたのだろうかと小さな不安を感じた。

そして、何故まっすぐに私の方へやってきたのだろう。あんな、表情をして。

けれど私は何となく其のことについて問い質す事はできなくて、形にもならなかった声をしまい込む。

 

ハヤテも私も言葉を探すことさえしないまま、静かに沈黙の洞に留まっていた。

鈍色の空は果てなく水滴を放ち続ける。

時折聞こえるハヤテの咳と、重なり合う雨のノイズに耳を塞ぎながら、隣り合う人の体温を僅かに腕に感じていた。

人間一人隣にいるだけで随分と暖かく感じるのだと云う事に、私は初めて気付いた。

 

「…一つ、さんに、聞きたい事があるんですね…。」

 

ぽつりと、ハヤテがささやかな声で云う。

ごくごく小さな呟きであったのに、雨音の中でも不思議と其の声ははっきりと聞こえた。

低く、胸に沁み入るような彼の声は、いつだってひどく耳に心地よい。

 

「聞きたい事、ですか。…なんでしょう。」

 

続きを促したが、ハヤテはまた少し躊躇うように暫し黙ってから、改めて私に其のまっすぐな視線を向ける。

 

「…あの時、……本当は何をしていたのですか。」

 

「それは、どういう、」

 

ハヤテの言葉の真意を掴みかねて困惑していると、苦々しい顔をして私から視線を逸らした。

 

突然、彼はぱっと何かに気を取られたかのように顔を上げて虚空を見つめ、何故かぎゅっと眉根を寄せる。

小さく首を傾げて彼の視線の先を見たが、ただ雨にけむる景色があるだけだ。

ハヤテは深く息を吐いた。

 

「時々自分が厭になりますよ…。

 …すみません。」

 

それは、何に対する謝罪なのか、と尋ねる暇もなく、ハヤテは流れるような動作で立ち上がって傘を開いた。

早く帰った方がいいです、風邪を引いてしまいますよ、と云い残し、ハヤテは私を振り返らないまま立ち去って行く。

 

得体の知れない焦燥を植え付けられたまま取り残される。

ハヤテが見えなくなった後も、私は彼の後ろ姿が消えて行った其の景色を、ずっと見つめていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

(10.3.17)

 

 

 

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