黄昏の檻 1
「依頼が果たされる迄、あなた、帰って来ちゃ駄目よ。」
あんまりだ。
中途半端に口を開いたまま、私は投げつけられた言葉の意味を問い返す事も出来ず、呆然と立ち尽くす。
背筋を厭な汗が伝うのを感じても、どうすることもできなかった。
目の前で豪奢な装飾の施された革張りのソファに腰掛けて足を組み、アンニュイな角度で肘掛けに頬杖を付く我が主、ノバラ様。
其の表情を見れば、いつになく非常にご機嫌を害しておられる様子に気付かざるを得ない。
私は此れ以上口答えして刺激するような真似をするべきではないことを悟った。
主様は使用人にも気さくに接してくれる、人情味のある、とでも云おうか、ともかく、概ね優しい人ではあるのだが、
時々こうして突拍子も無く無茶な要求をして、私達使用人を大いに困惑させる事があった。
今回の此の発言は、私の長くも短い此処での使用人生活の中でも、最もひどい無茶振りだった。
しかし、多大な恩ある主様に気持ち的にも実質的にも逆らえるはずもなく、
私は引き攣る頬を叱咤して、穏やかに微笑み、頭を垂れた。いや、でも、どうすんの、これ。ちょっ、どうすんの。
「…畏まりました、主様。」
主様の後ろに控えた使用人頭の後藤さんが、同情を込めて、労るような生暖かい眼で私を見ていた。
そんな眼で私を見ないでください、と胸の内で私が叫んでいることなど、彼には知る由もなかった。
(そろそろ昼時か…。脚も痛いし、ここらでひとまず休憩にしますか。)
林の中を一人、一心不乱に歩き続けて少し息が上がって来た頃、
私は懐から薔薇の細工が施された真鍮の懐中時計を取り出し、時間を確認して一つ溜め息をついた。
少し雲の多い青空を見上げれば、頭上を覆う常磐色がさらさらと揺れている。眩しい陽光がちょうど南中していた。
人の行き来により踏み分けられて出来た林道はたいして整備されている筈も無く、
小石や砂利に少しずつ足を取られていたのか、知らず知らずの内に妙に体力を消耗させられているようだった。
何より、私はそもそも体力に自信がある訳でもない。
すでに旅路に着いてから丸一日は経過しているが、まだまだ目的地は遠い。
近くに生えていた大樹の隆起した根によろよろと腰掛け、顔に掛かる髪を払い、また深い溜め息が零れるのを禁じ得なかった。
(車、いや、せめて自転車でもあればいいんだけど…。)
無い物ねだりをしても詮方ない事はよくよく分かってはいたが、
原始的過ぎる交通手段しか無い此の世界には、少々辟易していた。
思えば、私が生まれ育った世界からこちらに来て、もう随分になる。
人間の適応能力なんて優秀なものだから、まだ知識は乏しいといえども、此の世界に住まい此の世界の住人として振る舞う事にも、
もうすっかり慣れたつもりで居たのだが、ふとこうして二つの世界の違いを実感した時、小さな寂しさが胸に柔く降り積もってゆく。
ああ、少し、遠いところにきてしまったな、と考え、私は苦笑して掌に乗せたひんやりと冷たい懐中時計をそっと握り締めた。
体温を飲み込んでゆるゆると温もりを宿して行く小さな金属は、滑らかに私の掌に溶け込み、馴染んでいった。
きっかけがなんだったのかは未だに考えても全く思い出せないのだが、まぁ、理不尽は何時だって前触れ無く降り掛かるもの。
気付けば私は見知らぬ森の中に放り出され、自分が今居る場所が何処だかも分からぬまま歩き彷徨い、
野犬か何かの獣に襲われそうになって死を覚悟した時、主様もとい岸辺ノバラ様に助けられた。
主様は大名と云うなかなかに財力や権力のある、偉い人だと聞いている。(この国の大名の中では中の中程度らしいが。)
丁度その日は数人の護衛と使用人を伴って森へ鹿狩りをしに来ていたらしく、
偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎたタイミングの良さで、私を見つけ、
ご都合主義にも程がある巡り合わせで、途方に暮れる私を拾い、
三流芝居でも演じているようなあり得なさで、行き場を無くした私を自らの屋敷の住み込み使用人として雇ってくれたのだった。
使用人等という職業に就いたのは生まれて初めてであったし、其れ以前に、此の世界の知識や存在基盤の曖昧さは、
私に生きる事其れ自体を不安にさせたが、主様の主様たる所以は、それを一切構わず様々な用事を遠慮なく言い付けてくれた事にあった。
知らないなら学べば良いじゃない、やったことないならやってみればいいじゃない、とでも云うような、
その気持ちいい程に潔い精神的スパルタ教育に、私は随分と助けられたような気がする。…まぁ同じくらい困惑させられたが。
(例えば、こんな状況に陥っても、諦めは付くようになった…って、あんま嬉しく無いな。)
良くも悪くも、打たれ強くなったのは確かなようである。
蛇足だが、主様は女性の喋り言葉を扱うが、良い歳をしたごつめの男性であると云う事実を付け足しておく。
そんな異色の主人のお陰で、ちょっと変わった世界だけでなく、ちょっと変わった人にもあまり動じなくなった。
閑話休題。
しかしながら多少の変わり者くらいは気にしないのだが、此れから向かう目的地には、私は少々不安を覚えざるを得ない。
主様が私に託した「依頼」とは、屋敷の蔵から盗まれた黄金の太刀を盗人から取り返す事。
そして其の「依頼」を持ち込む先こそ、目的地、木の葉隠れの里なる忍の住まう場所なのだから。
何でも、此の世界に於いては、出すもの出せば「忍者」が何でもかんでもやってくれるらしいのだ。
此の世界には忍者がなんやかんやで結構いるらしいとは使用人仲間から少し聞いた事があったが、
殆どの時間を屋敷の中で過ごす私にとっては其の存在は遠い国のおとぎ話のような心持ちであったし、
此れから先どうにかなったとしても多分一生かかわり合いになるどころか其の姿を見る事も無いだろうと思っていたのだが。
意外な展開である。(嬉しくは無い)
(ていうか隠れ里だよね?隠れ里を堂々と尋ねて行っていいものなの?本当に辿り着けるのか隠れ里?)
何とも云えない行く先の見えなさに苦々しい表情をしながら、握り締めたままだった懐中時計を漸く懐に大事にしまいこんだ。
(10.4.1)
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