05口の端が切れた
お前は躁鬱の気があるんじゃないのか、と、苦々しい顔をして吐き捨てたライドウは、
赤くなった自分の掌を眺めたまま愕然としているゲンマの首根っこを引っ掴み、
彼の肩を宥めるようにぽんぽんと叩いた。
近くにいたアンコが団子を食べようとした体勢のまま固まってこちらを凝視しているのと、
其の向かいでお茶を飲んでいた紅が眼を見開いて口元を押さえ息をのんだのが見えた。
ハヤテがもともと青白い顔から更に血の気を引かせつつ、
床に叩き付けられて倒れている私の上半身を抱き起こした。
「十分にあり得る。否定はしないよ。」
ゲンマに思い切り引っぱたかれたせいで頬はじんじんと痛んで腫れてきたし、
歯を食いしばる暇も無かった為に自分の歯が当たり、口の端が切れて其処から血が滲んでいる。
その頬に違和感を覚えて口調は辿々しくなったが、ハヤテに背を支えられたまま平然とライドウに返事を返した。
受け身なら取ろうと思えば取れたのだが、私には自分を庇う気が一切無かった為、倒れた時に頭を打ってしまった。
ずきずきと額と頬が痛んで目の前が少し霞む。
叩かれた側からは耳鳴りも聞こえて来た。鼓膜は破れていないので何の問題無い。
よろよろと立ち上がり、足元が覚束無い私を、健気にもハヤテがまた傍らから支えてくれた。
殴られた側だとは云え、其の原因は十割が私にあることを彼もまた知っていると云うのに、
よくもまぁ私なんぞを気に掛けられるものだなと少し呆れたが、何も云わないでおくことにした。
まだ酷く後悔と苦々しさを滲ませた表情で自分の掌を見ていたゲンマに私は静かに歩み寄り、
腫れていない方の唇で歪に笑い、彼のその掌を静かに両手で優しく包む。
「ゲンマは悪くないよ。それは此処に居る誰もが知ってる。
そうさせたのは、私なんだから。
ごめんね、大丈夫だよ。」
困ったように首を傾げて心優しい彼を見上げ、さらりと一つ彼の頬を撫でる。
隣で其の様子を苦虫を噛み潰した表情で見守っていたライドウに目配せし、
もう一度、きみはわるくない、と呟いて私は静かに彼に背を向けた。
何が原因だったかはもう覚えていないが、とにかく最初は何らかの理由で落ち込んでいた私を、
ゲンマがそれとなく慰めてくれていたのだ。
そうしているうちに段々訳が分からなくなった私は訳の分からないことを口走りながら、
ゲンマの優しさを無碍にするように突っ掛かり、其れに少し気を悪くしたゲンマが諭すように言葉を返し、
後はもう済し崩しに私達は酷い口喧嘩を始めたのだった。
そうして私がもうすっかり訳の分からなくなった頭であまりに酷いことを口走り、
らしくもなく頭に血が昇っていたゲンマが思わず私に手を挙げた。
私は其れを認識しながらも、避けられたのに避けなかったし、受け身をとれたのにそれもしなかった。
心の何処かでは手酷く痛めつけられてしまいたかったのだろう、と云う推測を、私は否定しない。
だから力加減を忘れた平手に私の頬が打たれ、唇が切れ、身体が床に叩き付けられるのを、
私は安堵さえ混じる気持ちで受け入れた。
ぶっきらぼうだが、ゲンマは基本的にとても人に優しい。
そして意外と繊細な心を持つ人だ。
私がわざとそうされることを望んでいたことにも彼は本当は気付いていたのかもしれないが、
それでも思わず手を挙げてしまった自分を彼は責めているようだった。
酷いことをしたのは、私の方だ。其れはあの場にいた誰もがちゃんとわかっている。
呆然としていたゲンマを押し付けたライドウにも悪いことをした。
長閑なお茶の時間を邪魔してしまったアンコと紅にも悪いことをした。
被害者である以前に圧倒的に加害者である自分を気に掛けてくれたハヤテにも悪いことをした。
あの時は気が高ぶっていて変に頭がふわふわしていたが、頬の痛みがじくじくと疼き、
心地が地に足を付けるにつれ、自己嫌悪で死にたくなった。自分と云う存在に吐き気がする。
里外れの、今はもう使われていない演習場脇の樹の根元にずるずると座り込み、幹に凭れ掛かりながら項垂れる。
けれど突然、視界にぬっと白い布が差し出された。
のろのろと片側に熱を持った顔を上げると、私のすぐ傍に膝をついたハヤテが黙って私にその布を差し出していた。
水で濡らされた其の布を見るに、此れで頬を冷やせと云う意図は読み取れたのだが、
今の私が冷やすのは、頬ではなく頭の方だろう。
水遁でも盛大にかましてくれ、とまた馬鹿なことを口走らないように口を噤みながら、
私は前髪の隙間からただ其の布をぼんやりと眺めていた。
何時迄も布を受け取ろうとしない私に小さく溜め息を吐き、ハヤテは私の頬に其れをそっと押し宛てた。
ぴりっとした痛みとともに其の冷たさが切れた唇に滲みる。
「…げんま、は、」
「もう落ち着いてますよ。」
淡々と咳をこぼして答えるハヤテに表情はない。
彼が怒っているのか呆れているのかどういう気持ちでいるのか、今の私には分からなかった。
でもきっと彼も私を軽蔑しているんじゃないかと思ったので、率直にそう問いかけると、
心配しているんですよ、と感情の籠らない声と顔でそう返された。
本当か嘘か分からなかった。
「…ハヤテはいつも私に構うよね。」
私はこんなに最低で自分勝手で、私等を仲間と呼んでくれるやさしい人たちを傷つけてばかりなのに、
表情や意図こそ読めないにしろ、彼はいつも黙って私に近付いて来た。
怪我をすれば手当をして、酷ければ病院に連れて行ったし、泣いていれば何処からか突然そっと現れて涙を拭ってきたし、
全てが厭になって手当り次第に破壊して獣のように踞った私を彼は何故かきつく抱き締めてきた。
其の彼の行動の理由を、どうして、なんて尋ねようとはしない。
それに答えを見い出すには、私はまだちゃんと「人間」になれていないような気がするのだ。
私は、にんげんじゃない。
「厭ですか。」
ただただ、ハヤテは静かだった。
穏やかに凪いだ、表情のない眼で私を見つめる彼はあまりに真直ぐ過ぎて、私は息が苦しくなってしまう。
厭じゃないよ、と云おうとして、止めた。
そして変わりに別の言葉を吐いた。
「わたしは自分の存在が厭で厭でしょうがないよ。」
おかしくもないのに笑いが込み上げて来て、歪にゆるやかな笑いを浮かべる。
其の拍子に、固まりかけていた唇の傷が開いて、また血が滲んだ。
ハヤテはすっかり温くなった布を頬からそっと外し、そのまま緩やかな動作で顔を寄せ、
私の口端に滲む血を、その生暖かい舌で舐めとった。
それは神聖な儀式のようでもあり、永劫のカルマを此の身に刻み付ける呪いのようでもあった。
(10.3.14)
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