黒い羊のJesus












軋む木の扉を開いた私が見たのは、


(ハヤテ、さん、)


舌の上で転がした小さく脆弱な声は自分の耳にも届かない程にただ発現を拒否し、

また私の中に滓のように降り積もっていく。

こうして積もった、声に出来なかった言葉は私が生きて来た年数の分だけ其の深さを増して、

其の中を歩こうとするなら、泥濘のように脚に纏わりついて靴を飲み込み、

遂には消える迄、脚を溶かすんだろう。


私が決壊すれば、此の恥辱に似た腐食の泥濘が流れ出してしまうので、

私はただ許容して此れを抱えたまま最期迄、

正気でいる事に疲れても、もう狂う事も出来ない。

其れはでも、罪への罰は免れないという原始的な真理によるものだっただろうか。


少し唇を噛んで痛覚を確かめて、伸ばしたままの長い前髪に視線を隠しながらハヤテの横顔を見た。

其処に空気があることがまるで嘘であるように、透明なものの中で彼は存在していた。

よく晴れた雲一つ無い空が磨き上げたように滑らかに見えるように、彼を内包する空間は透いて滑らかだった。

清らかであるのとは違う、けれど一点の不安も無く、けれど暖かみと云うものも無い。


黒い木の机に向かい幾枚かの紙を事務的な動作で弄んでいるハヤテをただ見ている訳にもいかないように思われ、

私は視線を外して自分の用事をまずは済ませる事にした。

ハヤテと私以外には誰もいない閑散とした小さな木造の資料室には、

奥に書棚が幾つかと、扉の手前に大きな机と椅子が数脚。

窓も無い湿った部屋には申し訳程度の薄暗い裸電球が天井から2、3垂らされているだけで、

裸電球だけでは到底追い払えない濃厚な闇と、木や紙の黴たような匂いが幽閉されていた。


部屋の奥の書棚に並び立てられた色も形も大きさもばらばらな巻物を、

目星を付けた場所から一つ一つ丁寧に紐解き、

中を少しだけ確かめて必要なものは腕に抱え、必要の無いものは元の棚に戻した。


腕に抱えた数本の巻物は、私には必要の無い筈の、初級程度の忍術の習得法を記したものだった。

分身の術、変化の術、どれも幼いアカデミーの生徒達が学ぶようなものばかり。

でも、私は忍では無い。

私は既に忍を目指すような年齢でもなく、まして忍になりたい訳では無い。


本来なら忍ではない私が許可無く閲覧してはいけないものだったが、幸いにして受付の係が席を外していた。

内部に入り込んでしまいさえすれば、忍しかいない筈の場所に一般人が入り込む事は無いと誰もが高を括り、

擦れ違った数人の忍は私を疑う事すら、振り返りすらしなかった。

好都合ではあるが、私よりも能力の格段に高い忍達が気付きもしないその迂闊が過ぎる滑稽さに、

私は芯の方でひどく冷めた心地を感じていた。


何もこんな犯罪紛いのことをして入り込まなくとも、本当は此の資料室の閲覧許可なんて、

紙切れ一枚で簡単に申請できたし、その場で許可証を貰えるようなものだった。

流出したところで対した損害になりもしない資料。其処に敢えて侵入を試みた私。

私が侵入者であることに気付きもしなかった忍達よりも、私の方がずっと滑稽だった。


後ろめたさがあり、其れ以上の失望と虚無感があった。

電球の光の届かない所で、私には無価値な巻物を抱え、ひたりと首を絞める漠然とした絶望感は、

私の眼を虚ろにたゆたい、眠る間際にニ度と目覚めなければいいと願う切実さにも似て、闇を曵いた。

伸びたままの前髪の黒さは部屋の角に潜む闇と似た色をしている。

同化と云う選択にも、今なら可能性を見い出せる気がした。


選び終え両腕で抱えた大小様々な五本の巻物は腕を千切ろうと重さでのしかかり、

そして私は其の重さを、途方も無く大きく偉大な存在の重さと混同してしまったせいで少し泣きたくなって、

薄らと埃が敷かれた空の棚にそれらを並べて見下ろした。

冷めた感覚なのに、胸を詰まらせる得体の知れない苦しさを嚥下出来ず、

全てにおいて何かを終わらせる為と云う大義名分を頭に並べ立てて、巻物の一つに手を伸ばした。


「お止しなさい。」


唐突に、低く確かな声がきっぱりと私を制止した。

気が付いた時には既に、巻物に触れようとした左手は、

背後から伸ばされた冷たく大きな手に手首を掴み取られていた。

音も気配も無く、先程迄確かに机に向かっていた彼は、ほんの一瞬で私を制圧した。

拘束されたのは本当は左手首だけでは無かった。


手首を掴むのは白くてほっそりとした手なのに、

重くきつく枷を嵌められているようで、私は手首を僅かにさえ動かす事が出来なかった。

私はこんな手を知っている。

ハヤテ。

其の指のひとつひとつを見るのが苦しくて、ただ、苦しかった。


「其れを手に取った時点で、わたしは貴方を相応の場所に連れて行かねばなりません。」


鈍感な私には、頭の上から降る感情を殺したハヤテの声から何一つ感じ取る事が出来なかった。

近くて遠いものはこんなにもありふれていた。


「知っています。月光ハヤテさん。」


自身でも驚く程に落着いた声で云えば、手首を握る手が少しきつくなった気がした。

少し痛いと思ったが、ハヤテの手の冷たさが其れを紛らわせてくれたし、

もっと強く握りしめて、千切れる程力を込めればいいと、

私は薄闇の中で、綺麗に並べられた五本の巻物を見ながら思った。


「貴方は何者ですか。」


彼らしい丁寧な口調はけれど詰問を思わせる程鋭く、私の頭はようやく忍という存在を知ったような錯覚に麻酔を打たれる。

私はハヤテを知っているけれど、それは一方的であったことが其の一言で証明されて、何となく肩の荷が降りた。

真意を知る為の低俗な言葉の駆け引きをする必要が無くなった事は、明らかに私にとっての救いだった。


「どの解釈から見た存在証明が必要なのですか?

 貴方から見れば、私はただの侵入者でしょう。

 私、自分の存在を証明をする事程、難しい事ってありません。」


声だけはやけに落ち着いているけれど、私は云いながら、何だか肺が重くて、息の仕方も忘れそうだった。

ハヤテは様子を見るように黙っていた。


「嗚呼、ごめんなさい、私、何だか泣きそうです。

 ハヤテさん、貴方は私を御存じないでしょう。

 でも、私は貴方を、一方的ながら、存じ上げているんです。」


私の泣き出したくなるような小さな声に困惑するように、ハヤテは少し溜め息を吐いてゆっくりと尋ね直した。


「…何故、態々此んな所に無断で侵入したのか、とにかく理由を教えて頂けませんか。

 そうでなければ、規則は規則ですので、私としても此の手を放す訳にはいかないんです。」


「放す訳にいかないのなら、ずっと掴んでいれば良いのです。

 いっそ千切って下さって構わないんですから、私の手など。」


多少投げ遺りなふうを混じらせながら、私は淡々と吐き捨てた。

すぐ後ろから私の左手を拘束しているハヤテの影が、深々と私に降ってくる。

分かるのは声と、左手首を掴んでいる、薄暗い視界に浮かび上がった白い手だけ、

けれどそれが何よりもハヤテという存在を誇張しているように見えた。

その誇張された存在は私に取り込まれ、認識を待つより速く肥大した感覚で私を塞いでいた。

私は取り敢えず認識を確立させる為に其れを便宜上"飢え"と名付けた。

名付けたところで、飼い馴らす事は出来ない獣だった。


私の手首から滲み出した体温がハヤテの掌と温度を共有し始めた事に唐突に気付いた私は、

動揺と狼狽、焦りに駆られて、ハヤテの手を振り解かなくてはならない強迫観念に眼を塞がれた。

其の為、私は声が震えないように、細心の注意を払った。


「痛、」


さり気ないふうに、私が苦しげにそう告げてみせると、ハヤテは幾分気配を和らげて、手首を掴む手を緩めた。

当然の事なのに、今更、彼がまるで人間であるように思われた。

喜ばしい事の筈なのに今は其れが哀しい。


爪を立てる悲哀と共に私は一瞬で少し弛められた手を降り解き、

彼が私を捕まえる事を前提にした上で、逃げる動作を採択した。

案の定振り解かれた手は次の一瞬で再び掴み上げられ、今度は両腕を書棚に押し付けるように拘束されていた。

ドン、という背中を打ち付ける鈍い音と共に古い書棚が軋み揺れ、ひらりと埃が僅かな光を反射して舞った。

乱暴にも見える動作だったが、けれど1人の無力な女に対するものとしての力の加減はきちんとされていた。


「…私が忍者ではないって、すぐにわかったんですね。」


私は余りに愚かで、少しも気付かなかったが、

きっと彼は私が此の資料室に入った時から侵入者である事、

私が忍ではなく脆弱な一般人であると云う事に気付いていたのだろうと思った。


「忍にしては気配が無防備でしたからね。

 …あまり乱暴な真似はしたくありません、

 わたしは貴方に危害を加えようとしているのでは無いので、どうか此れ以上抵抗しないで下さい。」


其の声音は少し怒っているようにも子供に言い聞かせるようなものにも聞こえたが、本当の所は分からなかった。

ハヤテの眼を見れば少しは理解出来たかも知れないが、其の喉元より上を見上げる事はどうしても出来なかった。

彼の影さえ眩しくて、ただ何かを畏れていた。

拘束された手が震えだしそうになるのを必死に悟られないようにした。

何故なら、決して彼が怖くて震えているのでは無いのだから。


「…えー、あのですね、とりあえず、話を聞かせて頂けないでしょうか。」


先程迄の緊張感を掃き出すように努めて、ハヤテは困惑したように私にもう一度尋ねた。

そんなに人間らしく尋ねられてしまったのに、答えないでいることが私には出来そうに無かった。

私は私の中に於いてハヤテと云う存在の神格化をはかっていた。

胸につかえるのは、惜しくもあり、哀しくもあり、嬉しくもある、物悲しい息苦しさだった。


ふいに名前を尋ねられたので、私は、です、とだけ答えて、少しだけハヤテの顔を視線だけで見上げた。

曖昧な記憶と照合して、嗚呼、やはり此の人は月光ハヤテだと思った。


「ではさん、許可証も無しにどうやって此処へ入って来たのですか。」


「受付の方が席を外していらっしゃいました。

 中で数人の忍の方と擦れ違いましたけれど、皆様は私に気付いては下さらなかったようですね。」


私が平然とそう云ってのけると、ハヤテは苦笑して少し呆れたような自嘲するような溜め息を吐いた。


「何故此の巻物を見たかったのですか。」


「私にもわからないのです。

 ただ、きっと、"彼"が私にとっての『かみさま』である理由が何か分かるかも、と思ったのかも知れ無いですね。」


「…『かみさま』?」


ハヤテは少し眉を顰めて首を傾いだ。

私の云った事を上手く飲み込めないでいるそんな様子が、泣きたくなる程微笑ましかった。

そうやってずっと何も知らない振りをしていてくれたなら、私は不変を掲げていられるのだろうか。

私は塞がる気管を叱咤するように首を横に降り、眼を伏せた。


「ええ、かみさまです。所詮は全て、私の浅はかな認識が行った神格化です。

 …かみさまだなんて曖昧な概念なんかではなく、確かなひとであるのにね。」


云いながらますます泣きたい気持ちが膨れ上がって、せりあがってくるかなしさの塊を何度も飲み込んだ。


さんにとっては神様のような方がいらっしゃると、そう云う意味でしょうか。」


「はい、そうです…。」


押し寄せるようにかなしみが今度は眼を覆うので、私は闇に同化するように努めた。

私の両手を拘束するハヤテの手に、また私の温度が流れ出してしまっている。

侵してはならないものを侵してしまった罪の意識にも、私は罰を自らの手で下さなければならないのだろう。


誰も私を罰してはくれない。

其れは逆に私を苦しめる。

いっそ罵って欲しい、私を砕くように此の場で裁いて欲しい。


最初から私は赦されたくなんて無かった。

私を赦さない存在に跪きたくて、ずっと幻想を張り巡らせた箱庭で、

ハヤテという存在に『かみさま』を模して焦がれていた。

そんなふうに焦がれる程に、何時か見た彼の姿は冷徹な迄にうつくしかった。

私は滑稽な事と気付きながらも、ただ只管に其れを止める事が出来なかった。


「私、云ったでしょう、ハヤテさんの事は一方的に知っていますと。

 私にとって、貴方はまるでかみさまだったんです。

 眩しくて苦しくて、近くにいる事さえ、こわくてたまりません。」


手首で交わる温度が同化して行く。

涙を見せれば、私は狂うことができるだろうか。

そうして、全てのかなしさを吐き出して仕舞えば、或いは。














fin.




(05.1.26)


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