荊
閑散とした林の合間を縫う路を辿った先には、屋敷と呼んでもいい程の古い大きな木造家屋がある。
表面を少し焼いた木材がとろりと曇天の薄明りに照る。
玄関扉の前で佇んだ私は、その扉を叩くことができないまま、家を見上げるばかりだった。
私の隣でいい加減立ち尽くすことに厭きたカカシさんは、私を少し横目で窺うと、
私の代わりに何の躊躇もなく扉を叩いた。
彼を見上げると、視線が合う。
扉を叩いたからと云って彼を非難するわけもない。ただゆっくりと瞬きをして顔を伏せた。
カカシさんも、扉に向き直った。
「ハヤテはどうせ気配で俺らが訪ねてきたことはわかってるだろうから、入ろ。」
「鍵は、」
「かかってない。知ってるでしょう、あいつ、いっつも鍵かけないし。」
「でも、」
「いーの。」
あっけなくカラカラと軽い音を立てて開かれた玄関扉の敷居を潜ったカカシさんに倣い、
少し躊躇いながら私も敷居を潜った。
懐かしいにおいがした。
踏み出した足元を見つめれば、黒い鼻緒の黒い下駄を履いた、傷だらけで、骨張った私の足が見える。
ハヤテさんの家を訪ねる前に、カカシさんに私の家へ寄ってもらった。
(久々に帰る自分の家だった。)
そうして、カカシさんが外で、彼の愛読している本などを読んでいる間に、
私は身体の泥と血を落とし、服を着替えた。
汚れて、多分もう着られないワンピィスを脱ぎ捨て、浴衣のような薄手の黒着物に袖を通し、黒い帯で縛った。
この黒い着物は、私の服装になど興味を示したことのなかったハヤテさんが、
唯一、私に似合うと云ってくれた着物だった。
言葉のありのままの意味だったにせよ、蔑むような意味があったにせよ、私はともかく幸せだった。
服を着替えてから、カカシさんが傷の手当てをしてくれると云うので、黙ってそれに任せた。
とはいえ、無数にある切り傷を全てというわけではなく、まだ血の止まっていない比較的大きな傷だけだ。
手当てをしている時、ちらりと私の服装を見たカカシさんが困ったような顔をした。
さんはもっときれいな色の服もきっと似合うのに、と、小さな声で呟いた。
私は聞かないふりをしていた。
きれいなおべべをおめしあそばせ
おまえがひとたび捨てるだけでよいのですよ
頭の中に谺するいやな声が、久し振りに甦ってきた気がしていた。
荊の迷路に倒れた私に降り掛かった、無意味な言葉の羅列。
それはあの時よりもさらに鮮明になっているような気がして、厭な気分であった。
「ハ−ヤテ−。入るぞー。」
「・・・・カカシさん・・・・。」
呆れて彼の名を呼び窘めてみても、飄々と笑うばかりでまったく意味がない。
優しく、とても繊細なようで、でも大雑把で、突拍子もない。
カカシさんとはいい加減付き合いも長くなってきたけれど、いまいち実態の掴めないひとだった。
尤も、それは、私に見せてくれた表情が、片手で数える程しかない、ハヤテさんも同じことだったけれど。
「わたし、忍の方というものが、どうもわかりません。」
玄関で下駄を脱ぎ、裸足のまま軋む廊下の床板を踏みながら、私は云った。
前を歩くカカシさんが、私を少しだけ振り返って、意味の判然としない笑みをひとつ返した。
「そんなもんだよ。」
カカシさんがようやっと返事を返したのは、ハヤテさんがいるらしき部屋の前に来た時だった。
ふと立ち止まり、私に背を向けたまま。
「・・・・。ここ、ですか」
「うん、そう。
・・・ハヤテ、入るよ。」
中からの返事が返ってくることもないまま、障子が開けられる。
眼に飛び込んできた座敷は薄暗く、色褪せかけた畳のにおいがした。
ひと一人が床に就くだけにしては、広すぎるくらいの座敷の中央に、真白い褥に横たわる彼のひとがいた。
どくりと血が逆流するような、ただ、目眩があった。
「ハヤテ。」
カカシさんはハヤテさんに一言呼び掛けただけで、それ以上は何も云おうとしない。
床に伏してただ天井を無感情に見上げるだけのハヤテさんに視線を向けながら、
私の背中を小さく、しかしながら有無を云わさぬ少し強い力で押した。
思わず私は座敷の畳に足を踏み出した。
私がそのまま座敷に入ったところで動けずに呆然と立ち尽くしていると、
ハヤテさんが掛布団をゆるやかに跳ね上げて身体を起こした。
背中を厭な冷たい汗が伝うのを感じる程、私は、身体を起こすハヤテさんと、
私の背後でただ見ているカカシさんの、二人の沈黙が怖くて怖くてたまらなかった。
"怪我をしたとお聞きしました。"
"もう御身体の具合はよろしいのでしょうか。"
"お辛いようでしたら、無理を為さらず横になっていてください。"
"御心配をお掛けしてしまって、本当に、申し訳ありませんでした。"
そんな、云うべき言葉は幾つかあるのだけれど、唇が震えて上手く動かない。
それどころか、息さえ上手く吸えずに、いたずらに畳の馨に酔うだけだった。
「ハヤテ、」
黙っていたカカシさんが、強張った私の背後から、ハヤテさんに何かを促すように、云った。
ハヤテさんは私を見、その後ろを見、少し俯いて小さな溜め息を零した。
私は少し空気を飲み込んだ。
「さん」
ハヤテさんが私の名を呼んだ。
私は身体が震えて、返事をしようにも、出来ず、ただ見開いた眼でハヤテさんを見た。
「おかえりなさい。」
ぶつかる視線の先で少し眼だけを細めたハヤテさんがまるで幻のように思われて、
その瞬間に、私は、膝の震えに負けて座敷の入り口の敷居に思わず座り込んだ。
「わ、わたし、を、今度こそ、御嫌いに、なりました、か・・・・」
ハヤテさんは少し不思議そうに首を傾げて、私を見ている。
畳に手を付いて、座り込んだまま震える私を。
「今度こそ、と、云いますと?」
私はごくりと一度喉を鳴らした。
「ずっと、御迷惑を、お掛けしていましたもの。
ハヤテさんは何もおっしゃいませんでしたが、許されてもいませんでした。
それなのに、わたしは、無理に、お家に上げて頂きました。
そのうえ・・・・。
私、カカシさんから、お怪我を為さったと、お聞きしました。
身勝手な理由で失踪して、もし、私がそんなことをしてしまったがためにお怪我を為さったのなら、
私はハヤテさんにあわせる顔がございません。」
息も絶え絶えでそれだけ云い終えても、俯いた顔をあげることが出来なかった。
ただ私は、任務で家を開けているハヤテさんを思うと、
どうしても、留守を任されていたこの広い屋敷で待つことが、苦しくて、出来なかった。
堪らず屋敷を、里を飛び出して、振り切るように荊にまみれていた。
ただ荊の棘が、私の苦しさと、いつも感じていた堂々回りの不安とを、掻き出してくれるのではないかと。
そんな淡く幼く、拙い期待の為に、ハヤテさんにこのような出来事が降り掛かるだなんて。
取り返しの付かないことをしてしまったと思っても、もう私にはどうしようもなかった。
「わたし、この家のお留守を任せて頂けた時、ハヤテさんに、少し、初めて信頼を寄せて頂けたような気がして、
傲慢に溺れてしまいましたけれど、とても、とても嬉しかったのです。
ただ、それだけは信じては頂けないでしょうか・・・。」
嫌わないで、とは云えるはずもない。
「いつ」
ハヤテさんが云った。
「いつ、私がさんを信頼していないと云いましたか。」
ぽつりと云った声は小さかったが、静まり返った此処では大きく響く。
衣擦れ一つ聞こえないのだ。
私はハヤテさんの問いに答えるでもなく、弱く首を振る。
「何故さんは突然いなくなったりしたのですか。」
答えようとしたが、声が出なくて、やはり首を振った。
ハヤテさんは優しく諭すように、穏やかな声音で、ゆっくりでいいですから、と促した。
「・・・・こわかった、」
「さんは何が怖かったのですか。」
「屋敷、に、静かすぎて、」
もはや言葉にならなかったが、ハヤテさんはいつもにもなく勤めて穏やかな声を発するようにしていた。
それが私を落ち着かせるためだと気付いて、よくわからないまま息が詰まる。
「留守番を頼んだことが、厭でしたか。」
「いいえ!・・・・いいえ、いいえ、わたし、ただ、もう、嬉しかったんです・・・。」
「ありがとうございます。」
少し笑みを含んだ声を不思議に思って、私は思わず顔を上げてハヤテさんを見た。
今迄に見たこともない、穏やかなハヤテさんの笑みが私の困惑した視線を受け止めた。
「今迄、随分と私の至らない言葉と態度で、さんを不安にさせてしまいましたね。
すみませんでした。」
何故ハヤテさんが謝るのかわからずに、私は眼を見開くしか出来なかった。
ずっと黙っていたカカシさんが、急に私の頭をくしゃりと撫でた。
「全くだ、ハヤテ。
お前ねぇ、表情乏しすぎ。仏頂面しすぎ。
さんを心配するあまり周りも見えなくなって、
挙げ句ベタなトラップに引っ掛かって、逆に心配されてどうすんのよ。」
カカシさんに云いたい放題に云われて、ハヤテさんはカカシさんを少し睨んで苦々しい表情をする。
そんな表情も、私は初めて見た。
私が今迄に知っていたハヤテさんの表情は、感情と云うものがおよそ欠落したような、
無機質なものばかりだったのだ。
私のことなど、なんとも思っていないのだろう、と。
悲しかったけれど、それでも、声にしてハヤテさんが私に去ることを命じられるまでは、と。
ほんのひとかけらの憐憫に追い縋るように、渇き飢えたままで、この屋敷を何度も何度も訪れた。
カカシさんの私の頭を撫でる手が一層重くなった。
その重みの、優しいこと。
「お願いが、あります」
思いきって云うと、カカシさんの優しい重みが頭からふっと消えた。
顔をあげれば、床に半身を起こしたハヤテさんが静かに瞬きをしながら頷いた。
黙って先を促してくれているのが、それだけの動作で滲みる程よくわかる。
「ご迷惑でないのなら、ハヤテさんのお傍に」
ハヤテさんは、薄く、本当に薄く、儚い笑みを浮かべた。
そうして、思い出したようにハヤテさんは私を手招いた。
ゆらゆらと薄暗い部屋の中で揺れる白くて細い手がうつくしかった。
カカシさんが黙ったまま僅かに笑み、手を差し出したので、その手を取ると、
ぐいと力強く引かれて、私は力の入らなかった脚を叱咤して立ち上がった。
背中を押されて、躊躇しながらも、誘われるように、
おずおずとハヤテさんの褥の側に寄り、傍らにぺたりと座り込んだ。
間近に見るハヤテさんは、いつものように無表情だった。
ただ、敢えて云うなら、いつもよりも少し優しい眼に見える。
「その着物、やはりとてもお似合いですね。」
ハヤテさんは私の頭を撫で、そのままゆっくりと頬に滑らせて、掌を添える。
荊に裂かれた私の頬の傷を、繊細な冷たい指が撫でた。
まだ生々しい掻き傷が、私の意識の中で、塞がっていく。
喉の奥でこらえていたものが溢れそうでも、涙にはならない。
冷たい鉱石細工の手に縋り、身体を折った。
Fin.
不器用なひとと、おそれるわたしと。
(03.6.1)
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