頭の中では、何かを祝福する煩い声と、「猫の屍体が風に靡いている」などという文章が、不自然にちりばめられている。

今現在、私の頭の中には重要なことが何一つ入っていなかった。


意味を成さない支離滅裂な文章形態をもったもの達と、ざわざわする雑音ばかりで、

身体が痛いような痛くないような、足がちゃんと地についているかもわからない危うさだ。


私は突如感覚を取り戻したことに気付き、ハッと眼を見開いて、少しちりりと熱い感触がする方に眼を向けた。

自分の身体を見下ろしてみれば、それはそれは酷い格好をしていた。


髪は絡まって、みすぼらしい。


剥き出しの骨張った腕は無数の細かい傷に血に赤く染まっている。

どれも鋭いもので引っ掻いたような傷ばかりで、血が出ていなくても赤くなり、小さく腫れていた。


足は裸足だった。

そして、やはりこちらもまた引っ掻き傷に塗れていて、

泥と血と踏み付けた草の色素が陽に焼けていない足を染めていた。


白いワンピィスは裾が薄汚れて、胸元に何かの葉がひっかかっている。


このどうしようもない格好は、汚いというよりも、自分で見ていて、とても痛々しくて気分が悪くなった。

本当云うと少し寒いのだが、傷やら何やらのせいで体中がちりちりと熱を帯びていた。

私は身震いをした。


私の周りを、しじみ蝶が嗤うように不規則な飛び方をする。


考えることを忘れていたということを考えていた私は、意味不明な言葉の羅列ばかりが支配していた頭の中で、

すみっこへ追いやられていた記憶を少しずつ取り戻して噛み締めた。


押し潰されて泣いていた、理由だとか後付けの感情だとかを思い出し思い出し、

それが脳裏に展開されるにしたがって次第に身体の重みがどんどん増していくから、

その重みに耐え切れなくなり、痩せ衰えてしまった脚は湿った地面に膝をつく。


膝をついてしまえば、もう、身体は済し崩しに地面に引き付けられて、べたりと座り込んでしまう。

それも多分自然の摂理なんだろうか。

そうだとしたら次は、向こうに見える青い茂みの向こうから人喰い虎獣が私を喰べにやってくるだろうか。

(それはとても些細な破滅願望だった。)

向き出しの手脚に、ひんやりと湿る土と僅かばかりの水滴を滴らせる細い葉の感触があった。


力の入らないまま、座り込み、上を見上げてみれば薄い曇り空の灰青と、鋭い棘を誇る荊。

迷路のようにきれいに通路を成す荊の隔壁が入り組んでいる。

私はこの荊の迷路を彷徨していたのだと、今さらのように、何の感慨もないまま気付いた。


荊の冠をつくりなさい


荊の冠を


荊に罪を悔い改めなさい


荊に切り裂かれながら許しを乞いなさい


頭の中で根拠のない、重要な意味も成さぬ命令形の文章がつらつらと並び立てて私をけしかける。

うるさいうるさいうるさい。

私は悔い改めるべき罪さえ、わからないのだから。


背骨に沿ってひゅるりと駆け上がる寒気、これは一体、何を意味しているのだろうか。


駄目だ・・・・・


呟いてみたけれど、掠れた声。

呟いてみたけれど、何が駄目なのかもわからなくって、

熱い身体に浮かされながら忘れていたものを手繰った。


わたしを、たすけて。


荊の冠に切り裂かれて問われる冤罪から、助けて欲しいのだろうか。

そもそもその罪とやらが冤罪かどうかも疑わしい。


あぁ、と、頭の一部から突如としてあふれた一つの名前が脳裏を満たす。


ハヤテさん、ハヤテさん、ハヤテさん、ハヤテさん、ねぇ、ハヤテさん、寒い、

助けてハヤテさん、ハヤテさん、わたし、あぁ、ハヤテさん、熱いよ、ハヤテさん


掠れながら何度繰り返したとて、どうして私がこの名前を呼び飽きることがあるだろうか。

(あるはずがない。ありえてなるものか。)


荊に切り裂かれても私から溢れるのは血よりもむしろ剥き出しの私の気持ちだろう。

私の皮膚が破れれば、溢れるのは、きっと血液と等しく体中を満たしているハヤテさんのこと。


今迄彼のことを忘れていたことが不思議なくらいだった。

忘れるだなんて、とんでもない罪だ。

あの冷たい滑らかな手に撫でられた髪の、幸せなこと。


ハヤテさんの名前から、あとはもう滑るように全ての記憶が後から後からでてくる。

そうすると、座り込んでいた身体は余計に重くなって、耐え切れず踞って、崩れるように地面に倒れた。

でも不思議と身体から毀れる熱さと痛みは消えた。


どうしてハヤテさんは私を助けに来てくれないんだろう。

あまりにも私が愚かだから、愛想を尽かされたのだろうか。


だとしたらあまりにも哀しすぎる。

傾いた視界を映す眼が濡れる。

眦を伝う水は、湿った地面に滲みて跡形も無くなる。


(私の悲しみなど、涙が地に滲みて消える、こんなものなのか。

 ハヤテさんが私の、私の全てだと云うのに、その気持ちさえこんなにも浅はかだったのか。)


どうりでハヤテさんがきてくれないものだと、私は少し哀しくなった。








「みーつけた。」





間延びした低い声が聞こえた。

その瞬間、私に陰が降りてきて、横たわってぴくりとも動かないまま目線だけで見上げると、

銀髪の猫っ毛がさらさらと、鈍い空に映えていた。

カカシさんは、片目は額宛で覆い隠したまま、剥き出しのもう片目で少し苦く笑った。


「はやてさんは、」


目線だけでカカシさんを見上げ、唇だけで声を発した。

久し振りにまともな言葉を吐いた声は、やっぱり掠れて少し耳にざらつく。

カカシさんは私の側にしゃがみ込んで、頬杖をついて私を見下ろしていた。


「開口一番それ、ね。

 俺さ、すごい一生懸命さんのこと探したんだけどなー。

 ねぇ、俺にかける労いの言葉とかはないの?」


勤めて明るい声音で話し掛けてくれる彼なりの優しさが、かえって申し訳なくて痛い。


「ない、かな。」


「はははは・・・・・はぁ。

 さんがハヤテのことしか考えてないのは十分知ってるけど、流石にちょっと傷ついちゃうね。」


「ごめんね。カカシさん。」


「うん、うん、いいよ。大丈夫だから。」


にこにこしながらカカシさんは頷いて、私の絡まり、汚れた髪を梳いて、撫でてくれた。

彼の手は暖かい。


ハヤテさんのひんやりとした白い手とは、本当に随分違っていて、

嬉しいような、悲しいような。ともかく胸が痛んでいた。


ハヤテさんの白い手は、まるで柔らかに磨き上げた鉱石のようだったのだ。


「ハヤテはね、」


「・・・・・」


「あいつ今ちょっと、任務からとにかく急いで帰ってきちゃったもんだから、へまやらかしてね。

 怪我して、強制自宅療養中なんだよ。」


だから俺が頼まれてハヤテの代わりに捜しに来たんだよ、と、彼は頷き頷き云う。

やけにしみじみとした言い方だ。


「怪我、ハヤテさんが。

 ・・・・わたしの、せいですね。」


「違うよ。怪我したのはあいつの不注意だもん。

 さんが悪い訳ないじゃない。何でもかんでも自分のせいにしてると、俺怒るよ?」


「なんでカカシさんが怒るの?」


さんが自分を大事にしないから。」


「そんなに大事じゃないんだもの。」


私が薄く笑んで、小さな声でそう云うと、一瞬私の頭を撫でるカカシさんの手がぴくりととまり、

すぐにまたゆっくりと優しい重みで、頭を撫で続けた。

カカシさんの表情が、とても悲しそうに僅かに歪むと、どこか哀れみが滲み浮かんだ。


彼にそんな顔をさせてしまった私は、胸がちくちくと痛んだ。


(それはまるで荊を抱いているような)





カカシさんは暫くの間傍らにしゃがみこんで私の頭を撫でていたけれど、

やがて帰ろうかと小さく息とともに吐き出して、一向に起き上がろうともしない私を抱き起こした。


けれど、本当云うと、私は起き上がらないんじゃなくて、起き上がれないのだ。

驚く程、身体はすっかり弛緩してしまったかのようにどろりと地に伏し、

意志の力だけでは此の身体の血と肉の重みを支えることが出来なかった。


カカシさんに背負われて、私は彼と同じ目線から地面を見下ろして、少しだけ溜め息をついた。

私はそれほど背が低い訳ではないけれど、高い訳でもなくて、

カカシさんがいつもみている高さからみる世界が大層物珍しくて仕方なかった。


ハヤテさんも、このくらいの高さから世界を見据えて夜闇を走っただろうか。

思うのは、それでも、そんなことばかりだった。


捕まっていてと云われ、血と泥に汚れた身体を申し訳なく思いながら、

カカシさんの首にゆるりと傷が沁みる腕を巻く。

頸動脈の打つリズムが少し怖かった。


私が走る速度よりよっぽど速く、カカシさんは私をしっかりとした腕で背負ったまま、

荊の合間を綺麗にすり抜けて走った。少しでも手を伸ばせばたちまち荊に腕を切り裂かれてしまうので、

大人しくカカシさんの首に腕を回して捕まっていた。


正確に荊の棘の届かぬようにぎりぎりの隙間を駆け抜けるのだから、彼はとても優秀な忍だと私は思う。

そもそも、ハヤテさんを盲目的にすべてとみなして生きてきたけれど、正直なところ、

忍というものがいったいどういうものなのか、はっきりとした答は出ていなかった。

とりあえずすごいことができる人は優秀なんだろうと、そんな判断しかできなかった。

(けれど、それで十分なのだ。実際。)


「聞かないんですね、」


荊の迷路を抜け出て、初夏の早緑が鮮やかな濡れた野原に出た。

開けた此処にも、相変わらず曇り空から降る灰青が生温い。

少し走る速度を落とし始めたカカシさんの背に揺られながら、思い出したようにぽつりと尋ねた。


「何を?」


カカシさんの返事は素っ気無かった。

今、こんな曇り空の下で、飾り立てる必要もない。


「わたしが突然いなくなったこと。理由とか。」


さん、あんまりそういうこと聞かれるの好きじゃないんでしょう?」


「・・・・ま、ね。

 じゃあ、もしわたしが別にそういうこと気にしないようなおんなだったら、聞いた?」


「そういうこと気にしないようなおんなだったら、突然失踪したりしない」


軽く笑いを含んで云うカカシさんのもっともな返答には、返す言葉がなかった。

あまり完璧すぎる返答には、上手く反応を返せなくなってしまう。


「でも、ハヤテにはちゃんと厭でも説明してあげなよ。」


「・・・うん、する。

 でも、なんで。」


さんが突然失踪した時、任務中だったハヤテの耳にもその報せがはいったんだけどね。

 表情はいつもと全然かわらなかったけど、あいつも忍だから。

 任務が終わった途端に踵返して帰ったって。

 何事もないような顏して、簡単なトラップにも気付かず突っ込んで、案の定、怪我してやがる。

 いくらなんでも、注意力散漫だ。」


「ハヤテさんは悪いことをしてはいません、」


カカシさんの言葉を無理矢理に遮って、低く呟いた私に、彼は笑った。

それで私は、子供のように機嫌を損ねた自分の愚かしさを知り、情けなくなった。


「そんだけ、さんの突飛な行動のことで頭いっぱいだったんだよ。

 心配かけたんだから、あいつが納得いくまで、安心するまで、説明してあげなさいねってこと。」


「身も蓋もない・・・・。」


からからとカカシさんが笑った。


気がつけば、私達は既に里の中を疾駆していた。

早緑の面影はもうない。



「直接ハヤテのとこに行くの?」


私はすっかりそのつもりだったので、首を傾げた。

ハヤテさんのところ以外に行くべきところがあったか、まったく考えていなかったからだ。

カカシは苦笑する。


「先にさん、腕の傷の手当てとかしといた方が、いいんじゃないの?」


あぁ、と、私は思わず頷いた。

たしかに、幾らなんでもこんな血だらけで泥だらけでハヤテさんに会いに云って平気な程、

私だって無頓着なわけではないのだから。

あまりに、身体の感覚すらわからなくなっていて、自分がどのような無様な姿をしているか、忘れていたのだ。














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