ある夜、台所にて乳白色をした陶製の碗を洗っていると、居間の方から私を呼ぶ静かな声が聞こえた。

丁寧に蛇口を捻って水を止め、碗を傍らに置いてから、手を拭きながら急いで声の元へ向かった。


「はい、何でしょう。」


居間の敷居を潜ると、木製のテーブルの側で灯を受けて立つハヤテさんの姿があった。

家着とは違う、忍装束を纏って刀を背負うといった出立ちから、これから任務へと赴くことを知る。

もう随分と遅い時刻なのに、と、少し思った。


さん、」


「はい。」


「突然で申し訳ありませんが、ほんの暫くの間、この家の留守を預かっては頂けませんか。」


本当に突然のことで、私がよく言葉の意味を飲み込めずに、少し困惑しながら首を傾げると、

ハヤテさんは表情の無いまま、黒い眼を私に注ぎ続けて、淡々と云う。


「任務で数日家を空けなくていけないので、ご迷惑でなければ、私が帰還する迄の間、

 この家の留守を預かって頂きたいのですが。」


私は思わず大きく頷いた。そうすることでしか上手く返事を返せなかったのだ。

私はとにかく驚き戸惑っていた。


今迄も、数え切れないくらい何度も、長い間家を開けることになるような任務へ赴いていた。

このハヤテさんの家に、半ば居候のような形で私が居着くようになって、もう1年と数カ月が経つ。

しかし、彼が私にそのような頼みごとをしたのはこれが初めてのことだった。


頷いた私を見てハヤテさんは、それではよろしくお願いします、とだけ言い残して、

居間から闇のたゆとう廊下へと、姿を消して行った。

取り残された私は、ハヤテさんが消えて行った居間の戸の方を見つめていると、虫の啼く微かな声だけが聞こえる。


つい先程、いつものように一緒に夕飯を食べたことを思い出していた。

ハヤテさんと共にする食卓は、とても静かで、

かちりと箸が食器に当たる音だけが人間味を帯びていた。


立ち尽くしていると、そんな先程の光景が、幻のように遠ざかって行く気がした。









ハヤテさんが任務へと赴き、そして、私がこの家の留守を任されてから二日目の昼。

南庭に面したところにある座敷の隅で、ひやりとする壁に凭れながら、私は本を読んでいた。


座敷は、何時の間にか居着くようになってしまった私にハヤテさんが与えてくれた部屋で、

この家にいる時の余った時間の大半を、私は此処で過ごす。

余った時間、とは、掃除や洗濯や、いろいろなことをすべて終えてしまった後の時間のことだ。


ハヤテさんはお仕事がある為、ほとんど家にいなかった。

朝早くに家を出たし、夜遅くに帰ってきた。

時折昼頃に出かけて、翌日の朝に帰ってきたりもした。


生活が不規則で、身体に触るのではないかと思い、そう尋ねてみたこともあるけれど、

ハヤテさんはただ穏やかに首を横に振って、大丈夫です、と云うだけだった。


そんなハヤテさんを思い出し、私は栞を挟んだ本を閉じると、溜め息を吐いた。


顔を上げて部屋を見回した。

日射しは庭に生茂った樹木に遮られて、この家の部屋はどこも昼なお薄暗い。


それはこの座敷も例外ではなかった。

涼しい室内中で、ゆいいつ障子を透かす明るい日射しが毀れる一隅は、本を読むのに最適だった。


凭れていた壁をずるりと伝って、私は温い光の差す畳の上に横たわった。

畳からは日射しを含んだ匂いが僅かにした。


と、突然光が遮られて、私は身体を硬直させた。

誰かが、いる。


ハヤテさんはこんなところから入ってきたりはしないので、彼ではない。

ゆっくりと音を立てないように身体を起こして、障子に不自然にくっきりと落ちた人影を見た。


どこかで、見たことがあるようなシルエットに首を傾げ、身構えながら思いきって障子をそっと開いた。


「や。」


「カ、カカシさん・・・・。」


私はがくりと項垂れた。

障子を開いた敷居の向こう側、縁側の縁に腰掛けて振り向いたのはカカシさんだった。


カカシさんは時折ハヤテさんの屋敷を訪れては勝手に上がり込んで寛いだり、

当たり前のように何故かハヤテさんと彼と私で食事をしていたり。そんな不思議な間柄だ。


もともと彼はハヤテさんの友人だが、もっぱら彼の相手をするのはハヤテさんではなく私なので、

最近は随分と彼の突然の訪問にも馴染んできた方だった。

私を子供扱いするように、にこにこ嘘っぽく無邪気に笑みながら、よく頭を撫でてきた。

彼曰く、「撫でるのに丁度良い位置」らしい。


「どうしたのですか。

 ハヤテさんを訪ねていらっしゃったのでしたら、

 カカシさんも御存じでしょうけれど、いらっしゃいませんよ。」


「うん、知ってるよー。

 ハヤテが任務だっていうから、さんが退屈してるんじゃなかろうかと、遊びに来てあげたの。

 俺、今日はもう任務入ってないんだよね。」


「・・・・わたしが御留守番をしていること、知っていたんですか。」


私が少々訝しんでそう聞くと、縁側に座って振り返ったままの体勢で、

カカシさんは言い様のない笑みをうっすらと浮かべた。

(もちろん、笑みとは云っても顔の半分以上が覆い隠されているので、片眼だけしか見えないのだけれど。)


「ハヤテの様子見てたらなんとなくねー」


「どういうことですか?」


「さぁ、」


云って、彼はからりと笑った。それ以上語るつもりはないらしい。

私は少し呆れて彼をまじまじと見て、取り敢えず家に上がるように手招いた。


「家主にことわりなく俺なんか家に上げちゃっていいの?」


「家主であるハヤテさんが止めたところで、いつも勝手に上がっていらっしゃったでしょう。

 今更同じですよ。

 何か冷たい飲み物でも持ってきますので、ここで少し待っていてください。」


うん、と云いながら、カカシさんは私の殺風景な座敷に上がり込んだ。

その様子を見届けてから、私は台所に向かって軋む廊下を歩みだした。








「ハヤテが心配?」


炭酸で割ったシトロンの入った洋盃を傾けながら、カカシさんが私に問うた。


「・・・・・何故そんなことを聞くんですか。」


「100%安全な任務なんてありえないでしょ。

 もしかしたら、ハヤテは今度こそ帰って来ないかもしれない。

 今回帰ってきても、その次はわからない。

 だから、心配じゃないのかなーと思って。」


薄笑みを浮かべながら云うカカシさんに向かって、私はあからさまに眉を顰めた。

そんな不謹慎なことを軽々しく云うような人でもなかったので、殊更不思議でもあった。


「心配だと云えば、そうかも知れません。

 でも、わたしには関係ないことです。」


「関係ないって、どう云う意味なの。」


「そのまま、です。

 もしハヤテさんがいなくなれば、その時はわたしも生きてはいないでしょうから。」


「後を追うって意味だったら、すごい厭なんだけど。」


「ふふ、そういう意味じゃありませんよ。

 息をしている、していないはたいした問題ではないんです。

 ハヤテさんがいなければ、わたしを満たす全てを失うことになります。

 生きていることと死んでいることの境目は、何がわたしを満たしているか、それだけです。」


さんは、結構、哲学のひとだね。」


真面目な顔をしてカカシさんがしみじみと云うので、私は声を上げて笑った。


「・・・でもさ、さん、本当にハヤテのことが好きなんだね。

 ハヤテにはっきりそう云ってあげなよ。

 あいつもきっと喜ぶよ。」


「・・・・ありえません。」


私は力なく、苦く笑って顔を伏せた。(ほとんど笑みにはならなかった。)

思ったよりも低い声で発した自分の言葉を聞いて、余計に重苦しい痛みが胸の内に吹きだまった。

カカシさんは少し眉根を寄せて云った。


「なんでそういうこと云うかな−。

 俺、そういうちょっと卑屈になるところ、さんの悪い癖だと思うな。」


「ハヤテさんはわたしに何の感情も抱いていらっしゃいません。

 多くを求めることはしたくはありません。それでいいのです。

 もう1年以上もの間、半ばこの屋敷に住み着くようなことをしてしまいました。

 わたしはもうそれだけでうれしくて、幸せなのです。

 それに、この幸せがいつか失われてしまうのが怖い・・・。」


カカシさんの、半ば批難するような視線が痛くて、私は眼を閉じ、膝の上で組んだ指に力を込めた。

指先が滔々と冷えてゆくのが、障子越しに降る陽光の温度との対比によって尚更明らかだった。


「打算的で恥ずべき心持ちだとはわかっています。

 それでもわたしは、ここに少しでも長く、少しでもハヤテさんの近くにいたいのです。」


暫く、沈黙が流れた。


ずっと俯いている間中カカシさんの視線を感じていた。

突然、何の前触れもなく頭に重みがのしかかった。

暖かくて大きな手、カカシさんが私の頭に手を乗せたらしかった。


「うん、・・・・ごめんね。」


苦笑するような声で、穏やかに云うのが聞こえて、私は僅かに首を横に振った。

カカシさんには、何一つ謝るべきことはない。


「でもね、俺は、もうちょーっとだけ、ハヤテにも、さんにも、

 楽しく生きて欲しいなって思うんだよな。」


私の頭から手をどけて、カカシさんは少しだけ障子を開いた。

直接差し込む光の向こう側に、濃い新緑の庭を眺めやりながら、水滴に濡れた洋盃をまた少し傾けた。





カカシさんはやがて陽が暮れ始めた頃に帰って行った。

気を付けてね、と云って、手を振りながら。


私はその後ろ姿を見届けてから家に戻り、

オレンヂの斜光が差す薄暗い居間でテーブルに突っ伏していた。


もうすぐ日が完全に暮れるだろう。

そろそろお夕飯を作らなくてはいけない頃だ、と思ったが、突っ伏したまま動く気になれない。

腕に、頬に、磨き上げられた木のテーブルの表面がぺたりとくっついて、冷たかった。


ハヤテさんがいない家で、あまりに静かなこの中で、食事をとるのさえも億劫だった。





いつのまにか、突っ伏したまま眠っていたらしく、時計の針を見ようと顔を上げたが、

時計さえ見えない夜闇が居間を満たしていた。


暗闇の中を手探りで進み、私は自分の座敷に向かった。


縁側に面した座敷へと続く廊下は、6日目の月によって、居間よりは幾分か明るかった。

床板は、私がきしきしと足を踏み出す度に音を立てる。

その軋みは余計に主のいないこの家の静けさを強く主張するようで、私は胸を詰まらせた。


座敷に着いた私は、部屋の奥に唯一ある籐編の引き出しから、

真白いワンピィスを取り出してそれに着替えた。


その足でまた来た廊下を引き返し、

私は、屋敷を出て夜の中へと駆け出した。














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