異類譚

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

くすんだ金色の、古い鍵。

 

申し訳程度に取り付けられた天窓から僅かに刺す薄明かりだけが、見下ろした掌の上に其れの輪郭を辛うじて浮かび上がらせている。

とある大きな屋敷の奥の奥、存在そのものをひた隠すように地下に設えられた座敷牢の中で、私はただその鍵を持て余していた。

ひやりと強張る手に載せた其の僅かな重量が、私にとって、不可思議であり、また、少し恐ろしくもあった。

 

此の金色の仰々しい鍵は、私を閉じ込めている座敷牢の扉の開閉を司るものだ。

何年も前に座敷牢に閉じ込められたその最初から私が此れを所持していた訳では無い。

天窓からの明かりが見えたり見えなくなったりする回数を三回程遡った日に、格子の向こうに突然現れた見知らぬ男が此れを寄越した。

 

 

 

 

 

その日もいつもと何も変わらない、単調な薄暗い日だった。

 

能面のように無機質な表情に顔を固定された斜視の老婆が、かたかたと盆の上で木匙を揺らしながら、今日も味の無い粥を運んで来た。

私に与えられる「餌」は、一日一回、此の老婆によって運ばれて来るそれだけだ。

あとは、時々何かの注射を射たれる。

何を射たれているのかはわからないし、其れは私が知らなくてもいい事だとでも云うように、説明も何もされなかった。

 

 

私はとある小さな国にある、とある小さな村の、とある小さな家に住む、とある貧しい夫婦の娘として産まれたが、

ふと気付いた時には私は既に此の座敷牢の中に閉じ込められていて、そしていつの間にか其れが当たり前になっていた。

 

其の最初の頃は、私と云う見せ物に対する物珍しさからか、屋敷の使用人や女中らしい若者が数人、私を見物しにやってきた。

そうして同情や侮蔑や好奇心などの眼を向けたり、黙って隅で踞る私に向かって勝手にお喋りをして帰って行った。

 

彼らの断片的な話を繋げて察するに、此処はとある金持ちの地主が住む大きな屋敷の、その地下に設えられた座敷牢らしかった。

私は金で買われて此処に連れてこられ、よく分からないが、地主は何かとても大事なものを私の身体の中に隠したのだと云う。

だからおまえは死ぬまでずっと此処から出られないのだ、と、憐憫を装った蔑みを込めて彼らは云った。

 

暫くして、私の元を訪れる其れ等の若者はいつのまにか姿を消し、ある日を境に、あの斜視の寡黙な老婆が私の餌係となった。

消えた彼らが今どうしているのかは分からない。

けれど、私は彼らに興味も無かったので、其れ以上は考えなかった。

 

そうやってただただ座敷牢の隅で身体を丸めて時間をやり過ごし、私は段々自分が人間である事を忘れて行った。

此の座敷牢に私を閉じ込めている屋敷の人間にとって、私はただ生きていればそれだけでいいらしく、

必要最低限だけが存在する薄闇の小さな世界の中でひそりと寿命を待っていた。

 

 

けれどそんないつもと同じだと思っていたその日に、変化は訪れた。

空の碗を入り口の方にそっと寄せて、片隅に踞って底に淀む闇を見つめていると、いつもよりも上の屋敷が騒がしいのに気付いた。

けれどどうせ私には何も関係ない事なので、特別其れ等に何を思うでもなく、膝をぎゅうと抱き締めて、足の指を丸めた。

 

白い着物の袂から伸びる腕は痩せ細り、筋の浮いた手の甲がまるで死人みたいだと他人事のように考えていると、

ばたばたと乱暴な足音が次第に近付いて来る。そうして、突然格子の向こうの扉がばたりと勢い良く開け放たれた。

荒々しくこちらに踏み込んで来た何者かが、手にした明かりを急にこちらに差し向けたので、

もう何年も暗闇にばかり慣らされた私は、煌煌とした其れが眩しくて堪らず、骨張った手を眼前にゆるりと翳して眼を細めた。

 

何、と咄嗟に疑問の声を口にしようとしたが、声を発する事を辞めてしまって随分になる喉は上手く震わず、

ぱくぱくと死にかけた金魚のように唇を動かす事しか出来ていない事に気付く。

そうして眩しさを堪えながら何度も瞬き、明かりをこちらに差し向けた相手を見上げれば、

赤黒い液体を頬や手や着物にべったりと濡らした壮年の男が、こちらを凝視して立ち尽くしているのをようやく視認する。

 

明かりを持ったのとは反対の手には、刃先からぽたりぽたりと赤い液体を滴らせた鉈が握られていた。

よく使い込まれて手入れされた、少し古めかしいものだった。

本来ならば、木屑や樹液、草の汁が付着しているのが正しいはずの、それ。

 

男の汚れた頬は殺いだようにやつれ、首筋も腕も脚も痩せこけている。着物も非常に粗末なものであるのが見て取れた。

落窪んだ眼はぎょろりと見開かれ、例え様の無い混沌とした感情を込めて私を見つめ、悲壮を小さく滲ませながら眉根を寄せている。

 

しんと静まり返った私と男の間に、また上の屋敷の方から叫び声や怒号や大きな音が降り注いだ。

男は大勢の仲間と共に、粗末な武器と追い詰められた狂気を携えて、此の屋敷に侵入して来たのだろうと私は考えた。

 

私は此の屋敷のことも、此の屋敷の住人のことも、此の屋敷のある村のことも、何一つ知らなかったが、

今目の前にいる此の壮年の男の様相から、何となく其れらを取り巻く事情と状況を悟り始めていた。

また、彼の身体を汚した其の赤黒い液体が、誰から零れ落ちて噴き出して飛び散ったものなのかを。

 

けれど、何となく理解してみた所で、私は彼にも、彼に殺されたであろう屋敷の住人にも、何の感情も湧いてこなかった。

 

彼が私をも手に掛けようと考え始めた事が其の爛々と光る瞳の揺れから察せられたので、

私は、其れもまた、あるがままの寿命と云う終着であろうと考えて、

力の入らない腕をぎしぎしと動かし、萎えた足を引き摺って、四つん這いのままゆっくりと格子の傍に近寄って行った。

 

男は反射的に半歩下がり、ごくりと喉を鳴らして鉈を強く握り締めた。

彼の正面迄這い寄った私は、小さく歪に微笑んで、長い髪を肩に流して頭を深く下げ、頸骨の浮いた首筋を差し出した。

 

其の意味する所など、男には厭でもよく分かったろうに、けれど男は暫し黙って逡巡した後、

もういい、と、小さく悲痛に掠れた声で呟くと、扉の脇の鍵掛けにぶら下げられていた金色の鍵を、おもむろに私の膝先に放り投げた。

もうたくさんだ、と彼は私に背を向けながら囁き、そのまま力ない足取りで扉を開け放ったまま駆け出して行った。

 

後に残されたのは、薄闇と、萎えた身体で踞る私と、血に汚れた金色の鍵だけだった。

 

 

 

 

そんなことがあってから、天窓からの明かりが見えたり見えなくなったりするのを三回程感じた。

もうあの男は此処に戻っては来なかった。

能面を貼り付けたような無表情の老婆も訪れては来なかった。

上の屋敷からは、あれ以来、足音も何も聞こえなくなった。

 

少し空腹を感じたが、段々何も感じなくなって来た。

座敷内に備え付けられた水道から流れる水を時折口にした。

後は日がな一日、ただただ掌に横たわる汚れた金色の鍵を見つめて、ひたりと座り込んでいるばかりで、

私はどうすることもできないし、どうにかしようと考える事さえ思いつかないでいた。

 

 

あの壮年の男が此処を訪れた時に声の出し方を忘れている事に気付いたので、

取り敢えず私は、あー、と、意味の無い音で声帯を震わせてみたのだった。

 

掌の鍵に向かって、あー、とか、わー、とか、白痴の娘のように、ただの音を浴びせかけた。

空気を震わせる事が出来た其れらの音に満足した私は、不安定な声量でふらりふらりと音程を滲ませながら、

遠い昔に聞いた事があるような気がする、子守唄を歌っていた。

 

全ての歌詞は思い出せないので、らー、とか、るー、とか、大半はただの音の羅列になっていたけれど、

頼りなく揺れる声が酷く不安定ながらも、一応は唄としての体裁は整っているようだと思えたので、私は満足だった。

自分の声を聞いたのが久し振りで、震える喉は自分のものであるはずなのに、まるで他人の声を聞いているような気分になる。

 

気が済む迄でたらめに小節を繰り返した後、私は少し疲れてようやく口を閉じた。

一頻り声を思い出しては見たけれど、相変わらず私は座敷牢の中に居て、薄闇に包まれながら座り込み、

掌にぽつりと佇む鍵が視線の先にあるだけだった。

 

 

 

「……何故、鍵を開けないのですか。」

 

 

 

突然、私以外は誰も居ない筈の静かな座敷牢に、落ち着いた低い声が投げ掛けられた。

私は驚いて、けれど其れは余り機敏な動作に結びつかないまま、のろのろと辺りを見回した。

けれど何処を探しても、誰かがいるのを発見する事は出来なかったし、足音や温度や気配さえ、何も見つける事が出来ない。

 

空耳にしてはあまりにもはっきりとした声だったが、と、小さく首を傾げ、開け放たれたままの格子の外の扉を見つめていると、

其の扉の傍あたりに淀む暗がりの中から、突然音もなく、ぬぅっと人影が滑るように目の前に現れたので、

私は眼を見開いてぽかんとその人影を見上げ、じっとそれを凝視した。

 

とろりと闇から姿を現したのは、黒い装束の上に草色のベストを着て、頭に額宛を巻いた、まだ歳若い黒髪の男だった。

確か、こういう恰好をしている人というのは、忍という仕事をしているのではなかっただろうか、と私は遠い記憶をまさぐった。

 

鈍く光る鋼の額宛の下の、ゆらめく僅かな光をとろりと反射する、その黒漆のような眼が、私を静かに見つめている。

その眼の下には色濃く隈が刻まれ、どことなく青白い頬が薄闇の中で妙に浮かび上がって見えた。

そして彼の背には、一振りの刀がある。

 

私に鍵を投げて寄越したあの壮年の男とは違い、私はこの忍が此処にいる理由がどうにも思いつかなかった。

屋敷にはもう生きた人間は残っては居ないだろうし、お金も、何も、もうきっと此の屋敷の中は空っぽだ。

…私以外は。

 

「…私を、殺しに来たの。」

 

頼りない掠れた声で淡々とその忍に問うてみたが、彼は幾らか空咳をこぼしただけで私の問いには答えず、

ひたすらに静かな表情の無い眼で私をじっと見据えているばかりだった。

しん、と静まり返った中で、私は再び首を傾げた。

 

暫しの間の後、ようやく彼は再び口を開いたのだが、何故鍵を開けないのか、と、再び同じ質問が繰り返されただけだった。

どうやら私が其の質問に答える迄は他事を口にするつもりはないらしい。

 

忍と云うのは何とも偏屈な生き物なのだなと少し呆れた気持ちで、私は彼への返事をのろのろと考え始める。

何故か頭がぼんやりしていてちっとも上手く回らないので、言葉がすぐに出てこなかった。

その間にも、彼は私を促すように何度か小さく咳いていた。

 

「……開けて、何になるの?」

 

そして掌に鍵を乗せたままずっと考えていた疑問を私は吐き出してみた。

そうなのだ、掌に鍵があり、其の鍵は此の座敷牢の錠と一対のもので、此れを鍵穴に差し込んで回せば格子戸が開くのは分かる。

けれど開いたところで、其処からどうしたらいいのか、何をしたらいいのか、其れが分からない。

 

「貴方は、外に出たいとは思わないのですか…?」

 

「…わからない、」

 

ゆっくりと数歩、足音も立てずにこちらへ歩み寄り、私の座り込んでいるその目の前で彼は立ち止まった。

格子を隔てても、其の距離はたった二歩分程の距離しかない。

こんなに近くでまっすぐに見下ろされているのに、不思議と威圧感や圧迫感のようなものは感じられなかった。

彼はただ、穏やかに其処に有り、静かに私を見つめているだけなのだ。

凪いだ闇の中に居る事がさも自然であるかのように、彼は奇妙に此の空間に溶け込んでみせていた。

 

「だって、私、もうずっと此処に居るの。

 鍵を開けても、それから、どうしていいか、わからない。」

 

本当に私はどうしようもない気持ちでいっぱいだったので、ふらふらと首を横に振った。

そうしたら、彼が初めて表情を僅かに動かしたのが見えた。

けれどすっと眼を細めただけなので、其の動きが彼のどんな感情や思考を表しているのか迄は、読み取る事は出来なかった。

 

「…けれど私は、貴方を連れて行かなければならないんですね。」

 

「何処へ、連れて行くの?」

 

「…里へ、」

 

「ふぅん…?

 よくわからないけれど、私は、次の牢屋に移されるのね?」

 

「………。」

 

彼は何故か其処で言葉を詰まらせ、少し困ったようにきゅっと眉を顰めた。

貴方にとっては、彼処もまた牢獄に等しいのでしょうね、と彼が小さく呟いたのが聞こえた。

 

私はやはり其の言葉の意味を理解するに至れないまま、ぼんやりと彼を見上げながら、鍵を乗せた掌をゆっくりと彼に差し出した。

暫し黙って差し出された鍵を見つめた彼は、やがてするりと其の手を伸ばして私から鍵を受け取った。

一瞬だけ触れた彼の指先は、とても暖かかった。

 

 

錠に鍵が差し込まれ、かしゃん、と、呆気無い音を響かせて、格子戸は開け放たれる。

 

 

「…こちらへいらっしゃい、」

 

開かれた格子戸の向こう側に膝を着き、彼が憂いを帯びた眼で私を招き寄せる。

私は小さく微笑んで、ふらつきながらもゆっくりと招かれるがままに、そちらに這い寄って行った。

 

彼は少し格子戸から身を引いて、此処から出るようにと促した。

そうしてもう何時以来だかわからないが、随分と久し振りに座敷牢から出て来た私だけれど、

その場にぺたんと座り込んだまま、彼を見上げることしか出来なかった。

どうかしたのかと問う彼に、私は少し申し訳ない気持ちで、そろりと口を開く。

 

「…あのね、怒らないでね。 私、とても立てそうにないの。」

 

もともと萎えていた脚は、食事が断たれて以来ますます衰弱して、既に自分の身体を支える事さえ困難になっていた。

彼はゆっくりと瞬いて少し黙った後、失礼します、と声を掛けて、徐に私を抱き上げた。

 

力の入らない痩せ衰えた身体には最早抵抗できるような力も無く、私はただ人形のようにされるがままになっていた。

別段抵抗しようとも思わなかったので、特に其の事に関して何とも思わなかったけれど。

ただ、いくら骨と皮ばかりの私とは云え、人間一人を軽々と持ち上げてしまった彼の、其の見た目に因らぬ腕力には少々面食らった。

 

「あなたは暖かいね。」

 

そう云えば、他人に触れたのも、触れられたもの、とても久し振りだったなと思い至る。

不思議な其の感覚に笑みをこぼしながらそっと腕を伸ばし、先程よりも近くにある彼の白い面に指で触れてみた。

人間の皮膚の感触。其の下を流れる血液。

「此れ」は人間なのだ、と、朦朧とする頭の片隅で認識する。

 

彼は、少しだけ哀しそうな顔をして、けれど無理矢理微笑んだ。

そして、そうですか、と、絞り出すように呟いた。

 

視界が霞み、何だか眠くなってきてしまって、私はそのまま抗い難い瞼の重さに負けてとろりと眼を閉じた。

身体から力が抜けてゆく。

眠りの淵に手招かれるままにぐったりと彼に凭れ掛かれば、服越しに僅かな鼓動を感じた。

 

小さな温もりはひどく懐かしい。

けれど、懐かしいと感じるその根拠が、もう思い出せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(10.4.6)

 

 

 

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