GHOST

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月光明るい夜なら散歩をしようと思う所だが、生憎と新月の夜に覚束無い歩行を進めようと思う程、は物好きでもなかったはずだ。

真夜中の散歩が日課であることにはさして異議を唱えるつもりは無いが、流石に雨が降っていたり、

風が強かったり、月の無い真っ暗闇だったりすれば、彷徨う気も失せると云うものだ。

 

しかし少し考える位置をスライドさせてみると、雨が降っていれば傘を差せば良いし、

多少風が強くても飛んで行ってしまう訳でもなし、そして敢えて云ってしまえば、夜目が効くので暗闇でも何の問題も無いのだが、

それでもそこはそれ気分と云うか、情緒的な問題と云うか、ああ、だがしかし、

真っ暗闇の歩行と云うのも、其れは其れで風流なものと云えなくもない、などと二転三転する思考を転がして、は退屈な時間を弄んでいた。

 

毎日やって来る夜、毎日やって来る暁、昇っては沈む太陽と月と自転する地球と眠ったり目覚めたりする人間。

当然のように回り続けるそんなものたちが煩わしくてうんざりしていたのだが、

はそれでも自分が酷く心穏やかで、平穏に、冷静に、思考がからからと壊れた歯車を回しているのを感じていた。

 

そんなに物好きではないと思っていたのだけれど。

結局、こうして消えた月に寄せて咽ぶ星々の絶唱を聞きながら暗夜をゆく自分は、十分物好きなのだと気付いて苦笑する。

くすりと鼻を鳴らして笑みを零した所で、寝静まったこんな夜更けの中、誰も気付いてはくれやしないのに。

 

毎夜毎夜里中をふらふらとしながら、気配を消して飛び回る暗部達に心の中でおつかれさまですと小さく労い、

角を曲がった先で出会ったりする人に時々ぎょっとした顔をされてしまい、もまたそれに驚いて思わず逃げてしまったり、

すっかり夜の散歩に慣れてしまった自身に笑いを零しながら、良い星夜だ、と独り言を呟いたりした。

 

毎日のことであるからして、そうそう何か大きな変化の有るものではない。

何の変哲も無い夜が今日も昨日もそして恐らくは明日も続いて行くだけのことなのだ。

そうしてふいに上機嫌になったはひょいと屋根に飛び上がり、音も無く駆けて行く。

 

はあまり優秀な方ではないし、そうそう抜きん出た才能があった訳ではないが、

眼も当てられないような落ちこぼれと云う訳でも無く、まぁ、とにかく、それなりに任務を毎日一生懸命にこなす忍だった。

”おまえは可もなく不可もない、本当に普通の忍だなぁ。”

アカデミーの教師に嘗てそう評されて笑われたことを、は昨日のことのように良く覚えている。

 

その恩師も、今となっては慰霊碑に名が刻まれているばかりで骨も何も残ってはいない。

忍の末期とは送られる者にとっては後腐れが無くて気が楽なものかもしれないが、

送る者にとってはとてもやさしくないものだと云うのがの見解だった。

 

其の見解に同意してくれた少女は、弔いとは死者の為のものではなく、残された遺族の心の整理の為のものだ、と云い、

も同じくそう考えていると笑って答えたその翌日、少女は呆気無く、送られる側となった。

 

其の見解を否定した少年は、死した肉体が有るべき姿とは自然に還って行くことだと主張して、

何も残らぬ忍の最期を、否定はしないけれど少しだけ悲しいのだと云った。

心優しい彼は其の翌年、彼の愛した大地に還ることも出来ずに、赤黒く汚れたぼろぼろの額宛だけになって里に帰還した。

 

皆どんどんいなくなっていく。

そんな寂しさに耐えかねたある日を境に、はこうして静けさに心を慰むように真夜中の散歩をするようになったのだった。

静けさに浸された里は、けれど穏やかな寝息が家々から聞こえてくるような気がして、

温かな布団の中で身体を丸めているであろう里人達を一層愛おしく感じられるのだった。

 

は人間が好きだった。

任務の内容如何では他者を殺めなければならなかったし、とて自らの仕事に誇りを持った一人前の忍なので、

もちろんそれを躊躇ったりはしなかったが、敵と云えども奪った命に対して確かに心は痛んでいた。

其の痛みを背負って行く覚悟とともに、彼女は何度だってクナイを投げたし、其の手を血で汚した。

 

ああ、なんと血腥い思い出ばかりを想起するものだ、と自嘲しながら、星灯から逃げるように里の外れ迄走り抜ける。

そうして気付けば、桔梗城の城壁が彼女の目の前に立ちはだかっていた。

 

所々苔むした瓦葺きの屋根の上をゆるゆると進んで、少し風化した、白い漆喰塗りの壁面にふわりと掌を添える。

此の桔梗城は今でこそ古びていても美しい城の様相を保っているが、忍界大戦の折には激しい戦の舞台ともなった場所だ。

 

大戦直後に彼女が見上げた桔梗城は、ひどく疲弊していた。美しかった白壁は見る影も無く、所々焼け焦げ、崩れていた。

割れた瓦屋根、瓦礫と化す外塀、血と泥に濁る水たまり、草木にこびりつく赤黒い飛沫。

戦の爪痕は物理的にも精神的にも里に深く痛みを残し、その完全な復旧には時間が掛かるだろうと、幼いながらにも当時のヒビキは胸を痛めていた。

 

戦が終わって十年以上経ったが、はそれでも戦に明け暮れる忍達を目の当たりにした其の恐怖をしかと覚えている。

見目だけが如何に血を洗い流そうと、記憶に灼け付いたものは容易く雪げやしない。

記憶と云うあやふやなものを、記録と呼ぶには不確定要素が多過ぎるのは分かっていたが、

彼女自身にとって、其の記憶を己が魂に刻み付けておくことは大いに意義があることだった。

 


ただ闇の中でぼんやりと浮かび上がる城を見上げて音の無い溜め息を吐き、天守閣の上にふわりと飛び上がる。

この周辺で一番高い場所だ。今宵が月夜であれば最も近くであの乳白色に輝く石を眺められたはずだった。

けれど今は星々が無数の鈴のように煌めいてしゃらりしゃらりと鳴り響いている。

 

金平糖をばらまいたようだと、あの小さな砂糖菓子が好きだった友人は、笑って夜空を見上げていたものだった。

その少女とも、もう二度と会えない。何故なら、少女自身が金平糖のような小さく煌めく星の一つになってしまったから。

潔いひとだったから、もうとっくに成仏してしまったに違いない、とは思っていた。

もし仮に、彼女が幽霊となって今も世を彷徨っているのなら、きっと生前と同じように、

頼りないを心配して、魂だけになっていたとしても会いに来てくれるだろうことを確信していたからだ。

 

ああ、会いたいな、生きている友人とも死んでしまった友人とも、

大事なひとみんなみんなに、ああ、会いたいな。

歌うように震えるように静か過ぎる大気に叶わぬ願いをほろりと零せど、彼女の耳には、ぞっとするほど虚ろな己の言葉が、空回るばかりだった。

 


天守閣の屋根の上で突っ立ったまま見上げる星空に飽いて、空気の抜けてゆく風船のようにしおしおと俯いた其の時、

は城の回廊の屋根の上に、自分以外の誰かの姿をみとめて、一瞬わっと肩が跳ねた。

その「誰か」は、闇の中に眼を凝らし、じっとを見上げているようだった。

 

彼女はとても驚いていた。

まさかこんな真夜中に、こんな場所で、誰かに遭遇するとは微塵も考えていなかった。

任務帰りの忍や、警備に就いている暗部達であれば、どんなに気配を押し殺してあろうともいつもならすぐに気付くのだが、

少し遠くの回廊の上に佇んでいるその人物の気配に、は何故か全く気付かなかった。

 

それはが、誰も居ないものであると思い込み、周囲に注意を向けていなかったせいでもあるのだが、

改めてそちらに注意を向けても、それにしたって随分と静かで密かな気配だった。

 

少し身を強張らせて、お互いがお互いを静かに窺っている。

よく眼を凝らしてまじまじと相手を見下ろしたは、それが、刀を背負い、木の葉の額宛を付けた男であることを認識する。

回廊の上に佇む男、月光ハヤテもまた、夜闇の中にゆるやかに浮かび上がるの姿を見上げて、

其れが白い着物に青磁色の羽織を纏った女であると識別するに至っていた。

 

言葉も無く、音も無く、暫し互いの姿を見遣って身動き一つしなかった二人だが、ずっと固まっていても埒があかないことは自明であるし、

好奇心と興味本位と少々の人恋しさもあって、先に行動を起こしたのはの方だった。

軽やかに天守閣から飛び降り、やや広めに距離をとりながらも、ハヤテと同じく回廊の屋根の上に音も無く降り立つ。

 

少しだけ近付いて改めて見たハヤテの姿は、にはとても儚気に見えた。

白い顔と腕だけがぼぅっと闇の中に浮かび上がって見える。

そんなハヤテの闇に溶けた輪郭が、彼女には一層その存在のあやふやさを強調しているかのように見えた。

 

「…こんばんは。」

 

恐る恐る、と云った態で、小さくハヤテに声を掛けて来るに、彼は平生のように表情はひとつも動かさなかったが、

内心少々困惑と疑心を抱きつつも咳をこぼし、一拍遅れてこんばんはと当たり障りの無い返答を返すに至った。

自分で声を掛けておきながらこんなことを云うのもなんだが、と思いつつも、は挨拶が返って来たことに、再びとても驚いていた。

そして、驚いたあまり、先程から考えていた疑問をついストレートに彼にぶつけてしまった。

 

「あの、お兄さんは、幽霊、なの?」

 

あまりにもするっと吐き出されたヒビキのそんな言葉に、眼を見開き、ひどく面食らった様子のハヤテだったが、

けれどすぐに落ち着きを取り戻して、少し可笑しそうに、そして困ったように、ゆるりと微笑んだ。

 

彼は否定も肯定もせずにただ微笑んだだけであったが、は其の表情から、

何となく彼の云わんとしていることを読み取って、ほぅっと息を吐きながら、小さな羞恥を含んだ苦笑いを返した。

 

は小さい頃から、時々生きていない人が見えることがあった。

其れはぼんやりとした光の塊であったり、人の形を模した亡霊であったり、

其の時々によって見えたり見えなかったりもしたが、ヒビキは確かに特殊な性質を持っていた。

 

幼い頃は生きた人間と生きていないものの区別がつかずに、他者にとっては気味が悪いであろう発言を繰り返したこともあったが、

物心がつく頃には、其れら、人ならざるもの達に話し掛けられても、なるべく相手をしないよう、関わらないことに努め、

また、人前でそう云う存在についての発言をしないだけの分別を弁えるに至っていた。

 

そういう己だからこそ、夜の散歩をするようになってからも、そうあるように努め、

何に出会っても、話し掛けたりするようなことを自分に禁止していた筈だったのだが、と、

はあまりにも当たり前のようにハヤテに声を掛けてしまった自身を不思議に思った。

 

きっとハヤテの雰囲気がそうさせるのだろう、とは思った。

とても儚気で、静かに凪いだ海のような、穏やかな雰囲気。時折咳をほろほろと零し、深い隈を拵えた黒い眼はゆるく瞬きをする。

ぽつりと挨拶を返してくれた静かな低い声は、けれど、には聞こえているのに聞こえない『声』。

 


じっと互いの眼を逸らさずに暫し見つめ合った後、

ああ、そうか、わたしたちは相容れない存在なのか、とは今更のように気付いたのだった。

最初にハヤテの姿を視認した時から自分とハヤテは違うのだと気付いていたが、

もし同じだったら、と少し考えてしまった自身を、は少しだけ恥じた。

其の照れ隠しでもするように、はもう少しそちらに近付いてもいいかしらとハヤテに問うた。

 

ハヤテは其の質問を少し微笑ましく思いながらも、出来る限り平坦な声で静かに、どうぞ、と云うだけに留めた。

ハヤテとしても、自分とは本来交わることの無いベクトル上に存在するにどう対応していいものかと、

彼らしくもなく少々戸惑っていたのだった。

 

「…えっと、あの、…えーと、…………今日は、星が、きれいですよね。」

 

なんと在り来たりでつまらない発言をしてしまったものか、言葉を発した傍からヒビキは即座に後悔していた。

如何にも話題に困って無難な天気の話題を切り出したのが見え見えである。

彼女は自分の語彙の無さに気落ちした様子で、すみません、と呟きながらばつが悪そうに項垂れた。

ハヤテはそのあんまりと云えばあんまりな様子に笑っていいのか悪いのか迷い、けれど堪えきれずに、零れそうになった笑い声を空咳で誤魔化した。

 

「…笑いたければ存分に笑って下さって結構ですよぅ…。」

 

ハヤテのそんな反応に少々憮然とした様子でが云うと、彼は本当に遠慮なくくすくすと笑い始めた。

穏和そうな見目に反してなかなか失礼な男だ、と思い、は恥ずかしさを誤魔化すようにわざと顔を顰めてみせる。

 

「確かに、今宵は星が美しいですね…。」

 

一頻り笑い終えたハヤテが何事も無かったかのように平然と切り返すので、

今度はの方が何だか可笑しくなって来てしまい、くすぐったそうに小さく笑い声を上げた。

 

「お兄さんも…」

 

「ああ、私は、ハヤテと云います。」

 

「え? …あ、わ、わたしは、と云います。」

 

「そうですか。では、さん。何でしょうか。」

 

「あ、は、はい!

 …その、ハヤテさんも、夜のお散歩ですか?」

 

「…まぁ、そんなところですかね。

 も、と云うことは、さんも散歩ですか?」

 

「えぇ、まぁ、そんなところです。」

 

が少しにやりとしてハヤテの言葉を真似て切り返すと、ハヤテもふっと笑った。

互いが互いに対する距離を測りかねて、少々ぎこちなさは拭えないが、まるで普通に生きている人間同士がするような会話だとヒビキは思う。

微笑むハヤテのその穏やかな表情を見ていると、何だか少し切なくなってしまったのだった。

交わらない筈だったものが思いもかけず交わってしまったその心地に、嬉しさと戸惑いと困惑を孕んで、の心が小さく震えた。

 

「ハヤテさんは、こんな月の無い夜に、独りでいるのは、寂しくないんですか?」

 

は気付けば、何も考えていない唇がまたするりと余計なことを吐き出していたのに気付いて、罰するようにそれを噛んだ。

詮方無いことを訊いてしまったと分かっていたが、それでも其の言葉を撤回できずにいた。

形式としては質問の態をとってはいたが、声音はあまりに正直過ぎる。

 

一人でいるのが寂しいと思っているのは自身の方であることにハヤテは気付いていたが、

あやふやに瞳を揺らしたの様子に、彼はやはり否定も肯定もしないまま、少しの切なさを滲ませた微笑みを浮かべるだけだった。

 

「ああ、もう、ごめんなさい、今日のわたしは、とてもナンセンスです。」

 

「…今日、だけ、なんですか?」

 

揚げ足を取ってからかおうと云う意図を隠しもしない眼で笑うハヤテに、

は笑いたいやら怒りたいやら呆れるやらで、何とも云えない風に顔を歪めてみせた。

今日、も!です!とが半ば自棄になって吐き捨てれば、ハヤテが咳き込みながら器用に笑い声を上げた。

 

「触れることができるんなら、そのあんまり伸びなさそうなハヤテさんのほっぺ、

 力いっぱい引っ張ってやるところですよ!」

 

「おや、それは残念でしたね。」

 

あまりにも穏やかに笑ったハヤテに毒気を抜かれ、もまたふふっと眉を下げて笑った。

 

夜明けが近付いている。

東の空に夜明けの兆しを感じて、とハヤテは静かに別れの刻が近付いていることを感じていた。

直に星は暁に飲まれて掻き消されてしまうだろう。

は名残を惜しむように空を少しだけ見上げ、そして再びハヤテを静かに見つめた。

そのハヤテの静かな眼を見ていると、何故か少し泣きたくなった。

 

は悟っていた。

根拠は無いけれど、の本能は、もう二度と、彼と会うことはできないのだと告げていた。

もう、此れで本当に最後なのだと分かってしまった。

泣きたいくらいぎゅっと切ないのに、涙はどうしても流れない。

 

「ハヤテさん、」

 

「…なんでしょうか。」

 

「…触れることができるんなら、そのあんまり伸びなさそうな、ハヤテさんのほっぺ、

 力いっぱい、引っ張ってやりたかったんです。」

 

「…えぇ。」

 

「…わたし、今、何でかすごく泣きたい気分なんです。」

 

「…えぇ。」

 

「…でも、どうしても泣けないんです。」

 

「……えぇ。」

 

静かな静かなハヤテの表情を見つめて、は明るくなってゆく菫色の空を、祈るような気持ちで肌に感じていた。

ハヤテは静かにへと歩み寄り、ほんの一歩分の距離を開けて立ち止まると、

温度の交わることが無いと知りながらも、ゆるりとの頬に掌を寄せた。

 

触れているのに触れない。交わらない。あんまりにも切ないではないか、と、

はぎゅうと眼を閉じ、触れ合うことの叶わなかったハヤテの手の温度を、少しだけ想像してみた。

 

「ハヤテさんの、手は、あったかいんですか?」

 

「…そうですね。」

 

「そっか、…そっか。」

 

半透明の身体が、明け行く空と共に朧げになっていく。

 

「…さん、」

 

囁くような静かな声に促されてが瞼を開けば、ハヤテがひどく穏やかに眼を細めていた。

 

「…大丈夫ですよ。貴方は独りではありません。寂しくはありませんよ。」

 

「………あり、が、とう、…っ…」

 

最後に会えたのがハヤテさんで良かった、と、が小さく呟くのが聞こえた時、ハヤテは自分にふわりと彼女が抱きついたのを見た。

触れることなど出来よう筈もない、それでもハヤテには、確かに其の身体は暖かかったように感じられた。

 

 

そして、それっきり、は暁と共に溶けるように消えてしまった。

 

 

 

 

ハヤテは金色の朝陽の中で一人、静かに眼を伏せた。

見えるのに触れない、聞こえるのに鼓膜は揺れない。

其の儚き存在を、その怯える心を、如何にして慰めてやればよかったのだろうかと。

 

 

お前はまださみしいだろうか。

お前はまだかなしいだろうか。

お前はもう泣いてはいないか。

 

会いたかったひとたちには、もう会えただろうか。

 

なぁ、あわれな、さみしがりやの、やさしい幽霊よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、お前がこんな所に来るなんて、珍しいな、ハヤテ。」

 

薄く雲のたなびく青空の下、柔らかい芝の碧を踏み分けて歩くハヤテの後ろから、そんな声が掛けられる。

ハヤテとしては彼に着いて来てくれと云った覚えは微塵も無い。

けれどハヤテが拒否しなかったのをいいことに、当然の様に後ろを着いて歩いてくるカカシを、彼は黙殺した。

 

其れ以上ハヤテに声を掛ける事を諦めたカカシは、両手をポケットに無造作に突っ込んだまま、ハヤテの後から幾つも並んだ墓石の間を歩み行く。

確か月光家の墓はこちらにはなかった筈だ、だとすれば先に逝った友人の墓参りだろうか、とカカシが内心考えていると、

何度か迷うように足を止めてうろうろとしていたハヤテが、ようやく一つの小さな墓の前に足を止めた事に気付き、そっと彼の隣に立った。

 

ハヤテは感情の読めない静かな眼で、そのまだ比較的新しい墓石を無表情に見下ろしていた。

カカシには、そのハヤテの押し殺した眼の中に小さな感情が蝋燭の炎のように揺らめいているのがわかった。

けれど其の感情の名前迄は分からなかった。

 

憐憫とも、慈悲とも、哀切ともとれるような、本当に小さな揺らぎ。

珍しいな、と内心驚く気持ちを抱きつつ彼の視線の先にある墓石を見遣るが、

其処に刻まれた名の持ち主と彼との接点がカカシにはどうにも思い当たらなかった。

 

墓石に刻まれた名を頼りに膨大な記憶の糸を瞬時にたぐり寄せてみれば、そういえばそんな名の忍がいたような気がする、と気付く。

確か、落ちこぼれと云う程ではないが特別優秀と云う訳でもなく、取り立てて目立つところもないような、凡庸なくのいちだった。

それでもカカシが僅かにでも彼女を記憶していたのは、彼女の死因のせいだろう。

 

「…この子、確か去年、」

 

自殺したんだよね、と云い掛けた言葉を、カカシは飲み込んだ。

全て云わずとも、ハヤテも分かっていることだろう。

其の証拠に、ハヤテは一つ頷いた。

 

そしてハヤテは其の墓石の前にしゃがみこみ、手にしていた小さな花束をそっと置いて手を合わせた。

カカシは手を合わせる事こそしなかったが、静かに眼を伏せて黙祷する。

衣擦れの音一つさせずに滑らかに立ち上がったハヤテは、ぽつりと呟いた。

 

「…もう、会えましたかね。」

 

それに対する返事は、もう永遠に聞こえないと知りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幽霊に幽霊呼ばわりされるハヤテさんと

ようやっと成仏できたさみしがりやの幽霊のはなし

(10.3.27)

 

 

 

 

 

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