目眩の青
生徒の恐怖も、先生の緊迫も、城内の切実さも、実の所私は何も感じていなかった。
ダンプルドア校長が停職だと聞いた時はとてもとても驚いたけれど、彼が此処を去るはずがないという確信ばかりはあって、
恐らくは皆、安心と信頼の拠り所となっていた彼を慕い、心細く思っていただろうことは確かだった。
(スリザリン寮生達を除いては、だが。)
騒ぎも何時死ぬかも分からないことも、所詮私にとってはたいした恐怖ではなかったのだが、
1つ不便なことと云えば、スリザリンの後継者のせいで一人では寮外もろくに出歩くことが出来なくなってしまったことだ。
一人になれる校内散歩は、私の其れ程多くもない、いくつかの楽しみの1つだったので、殊更残念でならなかった。
寮の自室と云えど、相部屋なのだから1人になれるわけでもなく、他人が常にいるという不快感で私は多少苛ついていた。
「嗚呼、苛々する。」
羽ペンをぐっと握りしめて、いい加減飽きてきた課題を私はとうとう放棄するに至った。
談話室はろくに外出も出来ないせいで溜まり場と化し、いつも以上に騒々しく、私の神経にキリキリとナイフを引くかようだ。
その喧噪の隅っこで1人ソファーに座り、先程迄していた課題を諦めて片付けていると、ハリーとロンが私に声を掛けた。
「やぁ、、何だか機嫌悪いね。どうしたんだい?」
「ロンか、いや何、こう人が多いと、いい加減窮屈になってきちゃってね。
不謹慎ながら、もう私は怪物に襲われようとどうでもいいから1人で散歩を謳歌したいところだわ。」
「はは、そんな事を云うのは君くらいだと思うけどね・・・。」
私の返答を聞いたハリーが、苦笑いしながら肩を竦ませた。彼の云うこともまったくはずれていない。
ほぼ3分の1の生徒が恐怖に怯える中、我ながら的外れな不満をぶちまける私は奇特な存在と云えよう。
しかし奇妙なことに、私自身、雑然と私の中に転がる不愉快の原因物質が何なのか、明確に出来ずにいたのだ。
もちろん独りを寵愛する私は他人の群れに居続ける心地悪さに対して機嫌を損ねているのだが、
どうも突き詰めて厳密に辿っていくと、その根源は何かもう一つ別の要因からも成っているらしいのだ。
思い当たることが有るような気がするのだが、綺麗にその対象だけが記憶から隔離されているような感覚だった。
靄つく気分は酷く不快なものだが、私は思い出せないものを無理に思い出そうともしなかった。
思い出せないのは、思い出したくないか、その対象が無くとも何の支障も無いかである場合が多いからだ。
「つまらないわ、本当窮屈よ。それに、・・・・退屈。
ハーマイオニーがいないって、こんなにぽっかりと隣が空いてしまうものなのね、こんなに悲しいものなのね。
彼女は頭がいいから話をしていてもとても楽しかったし、いつも一緒にいるのが当たり前だと思ってたの、私。」
「・・・・・・・・。」
「あら、そんな可哀想なものを視る眼で見ないで頂戴。
今は少し寂しいけれど、きっとマンドレイクが育ったら、ハーマイオニーは戻ってくるのよ?
そう、今が少し寂しいと思っただけよ。
何より、一番彼女を心配してるのはハリー、ロン、貴方達じゃない。」
くすりと笑いながら私がそう云うと、照れくさいような、不機嫌そうな、嬉しそうな、そして何処か寂しそうな、
いたく複雑な表情を浮かべて彼等は私をまじまじと視ていた。
何処か欠陥があるような私はとても冷血で、私よりも彼等の方がよっぽどハーマイオニーの安否に腐心している。
冷酷な自分が寂しいけれど、心の底から思考世界を変えることは、今更不可能なことなのだ。
「あぁ、いい加減、自由になりたいわ。」
ハリーとロンがチェス盤を挟んでソファに座り、真剣に魔法使いのチェスを行っている傍らで、
私は小さな声で、自分の耳にすら届かないような独り言を零した。
拘束と規制から逃れたいと一度思うと、もうそれを過剰に求めずにはいられなくなった。
溜め息は肺の奥に滲み込んだまま、眼を閉じれば、頭の中に満ちあふれる雑音が眼球の裏側をくすぐった。
聴覚神経は波に揺れ、談話室の雑音達が近くなったり遠くなったりして、私は眼を閉じたままで方向感覚を失う。
このソファーについた手が溶け出しているような、浮遊しているような、曖昧な存在方法をとったりするので、
世界が不規則に揺れているのを感じる。もう眼が回りそうで、まるで眠りに引き込まれる瞬間のようだ。
遠くなったり近くなったりする音の波に紛れて、様々な残声を聞いた。
ハーマイオニーが笑う声、自分の退屈だと云ったその時の声。ドラコ・マルフォイの嘲笑も聞こえた。
意識しなくても耳に焼き付いて何時迄も神経を浮遊して、反芻されていく音に紛れて、
あのどうしようもないひとの得意げな声までも。
"えぇ、その通りです!ミス"
一体何処から来る自負なのか、一体何を誇ることがあってそんなにも笑顔を作るのか、私には理解不能なロックハート氏。
自分を誇りに思うこと等私は1度もなかった。無闇に笑顔を作るのはとても体力と気力を消耗することだった。
軽蔑し、その愚かさを愛し、そして私は彼のその無邪気さを不思議に思う。
思えば、あまりにも正反対だった。
"私の話をこうして直に聞けるなんて、あなたはとてもラッキーなのですよ!"
振り切るように眼を開ければ、視界に溢れるのは暖炉の揺れる焔の前で笑う少年、少女達。
もう頭の絡まった雑音の糸から聞こえてくる、記憶に染み付く残声はすっかりと私の意識の奥底へと眠りについたようだ。
それらがもう二度と目覚めないで欲しいと、私は切に願う。
胸を掻き乱す残声の洪水に呑み込まれるのはたくさんだ。
ロックハート氏は、哀れな彼は、今もあの不可解な眩しいばかりの笑顔を絶やすことなく、
自らの小さな世界で小さな自負を誇っているのだろうか。
近頃は規則による拘束が増えたおかげで、紅茶を飲みながら彼の下らない話を聞いているふりをするという、
そんな無意味な時間を過ごさなくなった私は、それでも何の支障もなくこうして生きている。
もともと彼は私の人生の構成要素ではなかった。
私と、彼とは、接触をすることの方が、きっと不自然だったのかもしれない。
だんだんと、周囲による、当然と云えば当然の軽蔑を受けて情勢の悪くなる彼を、とても哀れに思う。
いろいろな事が、あんまりいっぺんに起こってしまったので、とりあえずはなくなった拘束規則の枠の外へ出て、
私は1人きりで誰もいない廊下をあてもなく闊歩していた。
空虚に響く私の靴音など、誰も聞いていなくて、誰も私がこうして縺れる思考で彷徨していることを知らない。
靴音と私の呼吸音、心音以外には何も雑音のないこの久し振りに味わう「孤独」が何だか酷く懐かしくて、
やっと息をすることを赦されたような、安心を誘う廊下の静けさ。
一連の出来事はどれだけ信じられるものなのか知る由もないけれど、取り敢えずわかったのはハリーが怪物を葬ったことだ。
彼が云うに、巨大な蛇の異形、バジリスクが秘密の部屋の怪物だったという。
其れ以上の込み入ったことは、私は聞かなかった。
別段、生徒を襲い石にしてしまう怪物を怖れて、逃げ回っていたわけでもなかったので、恐怖も安堵も、興味もない。
それらの事件の真相さえも。
ただ、私は、一つの出来事にだけは、酷く動揺した。
同時に、どこかで"あぁやっぱりなぁ"と、納得している気持ちもあった。
ロックハート氏の不幸、(詳しい事情は知らないが、)記憶を無くし、学校を去るということだ。
その事を聞いた私は、同時に彼の犯した罪と偽証をも知ることになったのだが、それはたいした驚異ではない。
うすうす、いや、はっきりと、ほとんどの学校関係者がそうだろうと納得しうる結末である。
私自身も随分と納得してしまっていた。(何しろ彼が無能な人間だというのは、周知の事実だ。)
そういう意味合いでは、このロックハート氏に訪れた結末は、"物語り"のシナリオとしてはありふれていた。
『・・・そうだったの。まぁ、尤も、やっぱりそうだったのか、と云った方がいいかしらね。』
『まったくそりゃそうだよな、あんなまともに授業も出来ない奴に怪物退治なんてできるわけ無かったんだ。』
『でもまさかロンの杖が逆噴射して、自分の記憶を忘却しちゃうとはさすがに僕も思わなかったよ。』
『僕もそう思うよ、ハリー。でも、これでやっとあいつがいなくなると思うとホッとする!
来年はもっとまともな先生が来て欲しいと思うよ、ねぇ、?』
『そうね、ロン。できれば1年限りで辞めたりしない人がいいわ。』
医務室で、もう直出来上がるマンドレイク薬を待つハーマイオニーを囲み、ハリー、ロンと交わした会話を思い出しながら、
私は、頼り無くとも確かに目指す方向に向かい歩き出す足を、他人のもののようによそよそしく感じていた。
きっととりたてて向かわなければならない所ではなかったのだが、どうして何故か私は其処へ向かっている。
この不可解な私の心の奥底では、本当は何故其処へ向かうのか、知っていたけれど、私は見ないふりを。
珍しく晴れた天は、羽ばたく鳥さえ青く染め抜くような鮮烈な色彩。
不似合いでデタラメで、今日という日には、まるでぴったりだ。
「すみません、少しよろしいでしょうか。」
2人の初老の魔法省の役人に左右を囲まれて、ロックハート氏は奇妙にありふれた笑顔のまま、何処かへ連れていかれるようだ。
その笑顔は、私がかつて見下し、軽蔑し、愛したあの眩しい笑顔ではなく、どちらかといえば、
心配事も不安も悲しみも怒りも無くした、ただ穏やかさが影を残すだけの、少し空洞を感じる笑顔だった。
罪、自負、すべては杖から放たれた閃光に掠れゆき、彼にはもう嵐の後のような穏やかさだけしか残されていない。
そんな彼が両腕を拘束されたまま役人と共に振り向くのを見ていても、私は何も感じなかった。
先程迄は、悲しいとか寂しいとか、または清々するとか、そんな感情が沸き上がるものだと思っていた。
しかし、驚く程に私は冷静に、冷酷に、彼を侮るように、私は彼を見た。
人の良さそうな無害でぼんやりした笑顔のまま、ロックハート氏は少し首を傾げて不思議そうに私を見て、
にっこり笑って私に軽い会釈をしてみせた。まるでこんにちはとでも云う代わりのように。
「少しだけ、ロックハート氏とお話をさせて頂いてもよろしいでしょうか?
仮にも、この1年間ロックハート氏は私達の教師でしたので、一言お別れを申し上げたいのです。」
私が、拘束したロックハート氏の腕を掴み連行していく2人の魔法省役人にそう許可を請うと、
彼等は私を少し疑わしそうに見つつも、別れを告げる為の少量の時間を与えてくれた。
「プロフェッサー、いえ、ロックハートさん。私の名前を御存じかしら?」
無邪気に驚いたような顔をして首を横に振る彼を見て、私は恐ろしい程に冷静さを増していく。
何か得体の知れない感情が胸にふつふつと浮かび上がり、まるで快楽のようなものへと変化する。
はっきりと、悟った。
私はこの瞬間を楽しんでいた。
「私の名前、・と云うの。どうか私の名前をこれからも覚えていて下さるかしら?」
「えぇ、もちろんいいですよ、お嬢さん。」
「どうもありがとう。私もロックハートさんの名前は、ちゃんと覚えておくわ。」
にこにこと笑ったままのロックハート氏を、心底愛おしく思う。
相変わらず限り無く愚かでどうしようもないひとだけれど、全てを忘れ果て、全ての罪をもリセットした無垢な彼は、
尚一層、どうしようもなくて、私に嫌悪感を募らせる程に、可愛かった。
あまりの愛しさの為に覚えた吐き気を、あまりの愛しさの為に感じる悪寒を、やり場もなく私は臓器に押し込めた。
「また近い内に、私は必ず貴方に逢いにゆきましょう。
親愛なるギルデロイ・ロックハート。」
私はローブを翻し、ただもう其れ以上は何も告げずに彼等に背を向けた。
背筋を伸ばして前を向き、渇いて飢えていく靴音を冷たい風の音に掻き消して、
何もわかっていない笑顔の彼の元を、私はこうして去っていくのだ。
冬の冷たい風とは全く不似合いな晴れすぎた天の青の下で、冴えない顔した2人の魔法使いと、連れてゆかれる彼、
目眩がしそうな程に、何もかもが不似合いな午後。
Fin.
見下しながら愛しながら嫌悪しながら、なのに別れはとてもあっけなく。
おかしくなるような下らないあの時間が、それでも消えないことを祈る。
(03.1.26)
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